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≪巡拝記≫
歩いて歩いて1300キロ 灼熱の夫婦遍路巡礼記

辻本 正直

目次
1・まえがき2・白髪から坊主頭へ1日目・発信の道場へ出発
2日目・遍路ころがし 3日目・リュックほを預けて 4日目・暗やみの出発
5日目・夕立 6日目・ひとり歩きの女性遍路 7日目・大師にまつわる不思議な話
8日目・最長四十八キロの遍路行 9日目・お大師さんが修行した御蔵洞 10日目・七キロ減った体重
11日目・神峰寺への遍路ころがし 12日目・善根宿 13日目・昔は二つあった30番札所
14日目・山上の国民宿舎と遍路の友情 15日目・悲しみを背負った遍路の話 16日目・雨中の兎と亀
17日目・雨やどりと尿意 18日目・良心市のトマト 19日目・緑のトンネルと西瓜のお接待
20日目・竜串の電気クラゲ 21日目・短気なお遍路、忘れた地図 22日目・宇和の海を眼下に見て
23日目・最長の松尾トンネル 24日目・身軽に駆け下りた歯長峠 25日目・大師の眠る「十夜ケ橋」
26日目・コシヒカリの日の丸弁当 27日目・三坂峠から松山市へ 28日目・迷う遍路と走る遍路
29日目・落とした掛軸・脱水症状で点滴 30日目・2足目の靴 31日目・車のお接待
32日目・無題 33日目・トイレを借りたお大師さん 34日目・眼下に雲を見て
35日目・蝮に用心、熊笹茂る遍路道 36日目・母娘連れの遍路 37日目・悩める女性
38日目・忘れた掛軸 39日目・結願に向かって あとがき

まえがき(1)

四国88ヶ所巡拝記(1) 「四国の春は遍路の鈴の音とともにやってくる」と云われている。菜の花の咲く野道を歩く白衣に菅笠に金剛杖姿の遍路は、四国路ののどかな春の風物詩となっている。 作家早坂 暁さんは四国の遍路みちに面した商家に生まれたが、子供の頃の思い出を次のように語っている。 「わが家は町の中央の小さな橋のたもとにあるせいもあって、日に数十人のお遍路さんが家の前に立つ。念仏と唱えて、手に持った鈴をチーン・チーンと鳴らす。それを合図にして、幼い私は両手一ぱいの米をお遍路さんの袋に入れる。お遍路さん用の米ビツがあって、多い日は何升もの米を小さな手で運んだ。 お遍路さんは、その米で遍路宿に泊まることができた」と。 昔は先立たれた子供や肉親の供養、自己または家族の病の治療を祈願して、また女性の場合は夫の女性関係や姑との確執に悩んで歩く悲しい遍路が多かった。 昨今の遍路は、自家用車やタクシーまたは観光バスツアーによる人など、圧倒的に車遍路が多く、このような悲しみを背負った遍路は少ない。年間十万人とも二十万人とも云われる四国路を廻る遍路の大多数は、この車遍路であって、歩き遍路は年間1000人ぐりいだろうか。しかし、最近の混沌とした世相の反映してか、また、自己の過去の人生を振り返ってみる機会として、歩き遍路をする人が増えつつあるようである。 四国の「へんろ道」は、順打ち(1番霊場から順に巡拝すること)の場合は鳴戸を起点として、おおむね時計の針の如く右回りの循環式になっていて、歩けば1300キロとも1400キロとも云われている。健脚家でも四十日前後を要し、普通の人なら五十日以上はかかるだろう。 私は或る日、駅前の書店で見かけた「定年からは同行二人」という単行本を買い求め、著者の真夏の歩きへんろ体験記を読んで、その「魅力」と「凄さ」に感動した。 そうだ。自分も「ヤッテミヨウ」と計画したのは平成6年5月。1年間の準備期間を経て、終に平成7年7月6日より妻と同行二人(お大師さまと一緒に歩いて修行するという意から同行二人「ドウギョウニニン」と呼ぶ)、いや、同行三人の旅に出た。 そして、平成7年8月14日に無事、結願(ケチガン)(霊場八十八ヶ所すべてを巡拝し終えること)することができた。 また、平成9年から平成10年にかけて、松山に在住し「へんろみち保存協力会」の代表者として、歩き遍路に力を入れておられる宮崎建樹先生が先達となって歩く「へんろみち一緒に歩こう会」に参加して、区切り打ち(注1)により二回目の結願をした。 この歩きへんろの体験をシリーズで掲載することになり、拙文ですが、歩きへんろで得た四国路の人々の大師信仰の思いと、素朴で且つ熱い心に接していただければ無上の喜びであります。
(注1)八十八ヶ所の札所を一度で打つことを「通し打ち」と云い、数回に分けて打つことを「区切り打ち」という。 また、現在は紙の納札(オサメフダ)に住所、氏名、年令や願い事を書き奉納するが、昔、遍路は、木の納札を札所に釘で打ちつけていた。このことから巡拝することを「打つ」と呼んでいる。
白髪頭から坊主頭へ(2)
平成7年7月6日(木)雨のち曇り

歩き遍路への夢と希望を乗せて家を出る。時に私は66才妻は60才。 妻は2年前に乳癌の手術をしているが経過は良好で再発の心配は少ないようだ。お大師さんにお礼参りしょうと思った。大阪天保山桟橋より徳島高速船で四国ヘ渡り、JR徳島駅より高徳線に乗り、一番札所霊山寺のある板東駅に降りた。駅より徒歩20分、予約しておいた民宿観梅園に着いた。先ずは身支度からとリュックを置いて宿を出て、散髪屋に飛び込み白髪を「バッサリ」おとし気分一新の坊主頭になった。鏡を覗くとまるで別人のようで、形だけはこれからの難行に備える姿になったかなあ・・・・?妻が後から「お父さんスッキリしたでしょう。」と声をかけた。つづいて霊山寺の山門をくぐり、本堂横の納経所のある売店にて遍路用品を購入。 白衣2、輪袈裟(わげさ)2、菅笠2、納め札入れ1、金剛杖2、持鈴2、ズタ袋1、手甲1、納経帳2、掛軸1、「四国遍路ひとり歩き同行二人」の本、合計58.300円也。経本、数珠、線香、ローソクなどは自宅より持参した。上記の本は売店で薦められて買ったが四国霊場の寺や車道を紹介した本は書店に沢山出ているが、歩き遍路の「へんろみち」を書いた道案内としては唯一のものである。

−発心の道場へ出発(1日目)−
平成7年7月7日(金)曇りのち晴れ

午前7時歩き遍路の出発。日時はラッキーセブンだ。7の字が4つも並んでいる。これから先の道に「幸いあれ」と祈る。四国霊場は徳島県(阿波の国)発心の道場、高知県(土佐の国)を修行の道場、愛媛県(伊予の国)を菩提の道場、香川県(讃岐の国)を涅槃の道場、と呼んでいる。
その「ホン」の入り口である発心の道場に入ったわけだ。道中は長い。
1番霊山寺の山門をくぐり本堂つづいて大師堂と参拝する。参拝の方法もお経の唱え方もわからず見よう見まねであるが、そのうち、だんだんとなれてくるだろう。
1番から10番までは吉野川の北方を東から西へ進むが、札所間の距離が短く約27キロの距離で、田園地帯が殆どで急な坂道も無い。しかし初日でもあり札所での参拝に20分前後を要するので、今日は7番十楽寺までお参りし、7番の宿坊が夏の為客が少なく休んでいたので、打ち戻って予約しておいた6番安楽寺の宿坊に宿をとった。
[注] 四国八十八カ寺のうち宿坊のある札所は、約20カ寺であるが、宿泊を依頼する場合は予約が必要である。
遍路道中では道行く人や登校途中の小学生から「頑張って」「よくお参りで」「おはよう」と励ましの言葉をもらい、四国路の人々の遍路に対する熱い心情に感心させられた。宿坊では神戸からきた団体のお遍路さん43名とともに夕食をとったが、この人達は今回は徳島県の最後の23番薬王寺まで貸切バスでお参りする予定で、明日は13番大日寺まで打つとのことであった。夕食後は18時30分より寺の「お勤め」に参加し、住職の意義ある法話を拝聴した。

(本日の参拝した札所と歩行距離)
1番霊前寺(りょうぜんじ)……<1.2キロ>……2番極楽寺(ごくらくじ)……<2.7キロ>……3番金泉寺(こんせんじ)……<5キロ>……4番大日寺(だいにちじ)……<2キロ>……5番地蔵寺(じぞうじ)……<5.3キロ>……6番安楽寺(あんらくじ)……<1キロ>……7番十楽寺(じゅうらくじ)……<1キロ打戻り>……6番安楽寺
歩行距離合計18.2キロ

遍路ころがし(2日目)
平成7年7月8日(土)晴れ

5時35分、6番安楽寺の宿坊を出発。朝早いので朝食は、食べていない。夕べ一緒だった団体お遍路さん数名が、部屋の窓越しに「頑張って」と声をかけてくれた。
7番は前日にお参りしてあるので、竜宮城のような構えの朱塗りの鐘楼門の前を通り過ぎ8番熊谷寺を打つ。この札所は少し坂道を登って、見上げるような山門をくぐり石段、中門、更に石段と登って行くと、境内から御詠歌が流れてきた。私と妻以外に参拝者は無い。どうやらテープで流しているらしい。心が和む。
参拝後、次の9番法輪寺に向かう。広々とした田園の中を進むと、土塀に囲まれた札所が現れた。お参りした後、寺の前の食堂で朝食のうどんを食べた。時間は8時30分で出発してから約3時間を経過していた。丁度その時、昨夜の宿坊で一緒だった団体お遍路さんがバスで着いた。聞くと安楽寺を7時40分に出たとのこと。文明の利器には今更乍ら感心したものである。
この食堂を出る時女主人から初めてパックに入った梅干しのお接待をいただいた。かねて書物により四国では遍路にたいするお接待の風習があることは知っていたが、先ずは感激させられ、納め札に住所氏名等を書きお礼を述べてお渡しした。
この後、10番切幡寺を打ったが、この寺は標高155メートルにあり330段の石段を登るが、妻はこの坂が相当こたえたようだった。
更に進んで11番藤井寺に向かった。10番から11番へは9.8キロある。いよいよ本格的な夏日となり気温は33度前後あるだろう。途中全く日陰がなく汗がたらたらと止めどもなく流れ落ちる。5キロほど進んだところで吉野川に出て川島橋を渡るが、この橋は欄干がなく水量の多いときには水面下になることもあることから、沈下橋または潜水橋ともいわれている。
やっと藤井寺に着き、参拝した後、山門前の茶店に立ち寄り昼食をとろうとしたが、パンと蒸しさつまいもしか無い。しかし疲れて食欲も殆ど無いので、取りあえず「さつまいも」と「トマト」をいただいた。
腹ごしらえの後、昨夜予約しておいた宿の柳水庵に向かった。時間はすでに午後2時をまわりかけていた。
藤井寺から12番焼山寺にかけては「遍路ころがし」といわれる急な「へんろみち」が約16キロも続いていて、健脚家でも6時間程かかるといわれているが、 そのほぼ中間点に柳水庵がある。藤井寺の本堂の裏へ抜けると急な山道になった。道は丸太棒を横にした階段状になっており、一段毎の高さが30センチ程あって私のような足の短い者には相当きつい登りである。しかしそれ以上に妻にとっては大変だと思ったのでリュックサックを取り上げ、私が二つのリュックを持って登り始めた。ところが無理が災いして反対に私が先ず疲れ、途中15分程度歩いては10分程休憩するという有様になり、リュックの一つは妻に戻した。原因は朝早くから6番安楽寺を出発しカンカン照りの中を藤井寺まで約8時間、距離にして約22キロ歩いて相当疲労してからの山登りに入ったためだろう。
5時半過ぎになり、夏とはいえ山中のため薄暗くなりかけた頃、柳水庵まであと1.2キロという標識が見え「ホッ」として、「さあもう少しだ頑張ろう」と励ましあい更に進んだが、行けども行けども柳水庵は見えず、やっとたどり着いたが時は、時計の針は6時20分を指しており、この時ほど山道の1.2キロを長く感じたことはなかった。
柳水庵は番外霊場で、着くと同時に70歳台と思う住職と奥様が出てこられて「待ってました。疲れたでしょう。さあその冷蔵庫のお好きな飲物を飲んで下さい。山道に迷ったのではないかと心配していたのですよ。一服したらお風呂に入って下さい」と親切にいわれ感にいった。ここは2〜3人が宿泊できるだけで、過去に予約した客が道に迷ったりキャンセルの電話を入れずに他に泊ったりして、用意した食事を住職夫婦で食べねばならなくなったこともあったとお聞きした。
風呂は母屋から約10メートルほど下へ坂をおりたところにあり、戸をあけて中をのぞいて「アッ」と驚いた。私の眼中に飛び込んできたのは五右衛門風呂であった。以前、日光へ旅行したときに五右衛門風呂に入ったことはあったが、それは私がまだ独身の時代でそれから約40年を経た今ごろ五右衛門風呂とは……久し振りに懐かしい思い出に浸って、浮かんでいる踏み板を踏んで湯に浸かり今日1日の疲れを癒した。衣類は汗まみれになっていたが幸い洗濯機があり、妻が洗ってくれた。
湯からあがり食卓につくと奥さん手作りの田舎料理がいっぱい並んでいたが、疲労のため全く食欲が無い。しかし食事をしっかりとり体力をつけなければと箸をとったが思うようにいかず、仕方なく御茶漬けにして漬物で流し込んだ。
(本日の参拝した札所と歩行距離)
6番安楽寺……<1キロ>……7番十楽寺……<4.2キロ>……8番熊谷寺(くまだにじ)……<2.4キロ>……9番法輪寺(ほうりんじ)……<3.8キロ>……10番切幡寺(きりはたじ)……<9.8キロ>……11番藤井寺(ふじいでら)……<6.4キロ>……柳水庵(りゅうすいあん)
歩行距離合計27.6キロ


リュックを預けて(3日目)
平成7年7月9日(日)晴れ
7時、柳水庵を出発。天気は良い。今夜の宿は柳水庵の住職の紹介で植村旅館に予約しておいた。植村旅館は荷物を運んでくれるというので、リュックを預けて出た。 背中にリュックが無い身軽な身体で12番焼山寺に向かって山越え谷越え一歩一歩進む。杉の木立の中を約6.5キロ進んだところで、大きな大師像が上から見下ろしている一本杉庵に着いた。ここには徒歩遍路者のための記録ノートがあり、開くと最後は5月26日となっており、43日間記入が無い。記念の為住所氏名を記入して一服したのち更に進み10時40分に焼山寺に到着。 この寺は、海抜800メートルの高所にあり「火を噴いて山を焼き、人々に害を与えた毒蛇を弘法大師が退治した」との伝説から焼山寺と名づけられたとのことである。 参拝後、11時20分ここをたった。 途中に杖杉庵(ジョウサンアン)という番外霊場があり、ここは四国遍路の元祖といわれる伊予の国の長者・衛門三郎がおのれの非を悟って大師の後を追い、巡拝21回目の途中で大師と巡り合い、許されて最後を迎えたという逸話のの地で、私も自らの過去を振り返り反省する良い機会となった。 12時40分、うどんで腹ごしらえをして出発。途中「府中」というところの分かれ道で、どちらへ行くべきか迷っていると、近くの畑仕事をしていた人が「どうぞどうぞ私の家で暫く休んでいって下さい。」と言って自宅に招じ入れられ、お茶、コーヒー、ジュースのお接待を受けたので事前に本で読んでいたのを思い出し、納め札に住所氏名年令を記入しお礼をのべてお渡しした。その後も続いて農作業をしておられた女性よりスモモ、ビワのお接待を受ける。
今日は背中にリュックがないためか妻はいたって元気で、私より先にどんどん歩く。夕方4時に植村旅館に着く。入浴後階下へ降り夕食をとる。今夜の客は私たち以外に1名のみでこの客も歩き遍路でサラリーマンのため仕事の合間をぬって「区切り打ち」をしているとのことで58才と申され相当な健脚家のようである。 私は普段はアルコール(通常はビール)を若干たしなむが、お遍路中は禁酒するつもりで大阪を出た。このお遍路さんが目の前でビールを飲んでおられるのを見て、妻が横から「お父さんも飲んだら」というので早速注文した。
私の場合、自宅でも夏のビールは食欲増進の役割を果たしており少量のビールは却って身体に良く疲労回復につながると思われ、これから先の長い長い道のりを考えて断酒を破ることにした。まことに勝手なものだ。?
(本日の参拝した札所と歩行距離)
柳水庵……<5.9キロ>……12番焼山寺(しょうさんじ)……<1.6キロ>……杖杉庵……<8.8キロ>……植村旅館
歩行距離合計16.3キロ

暗やみの出発(4日目)
平成7年7月10日(月)晴れ

4時10分出発。このように朝早く出るのは日中の炎天下を歩くのは相当な苦行であるので、少しでも午後の直射日光を避ける為である。早立ちの時は出発の20分程前に、目覚まし時計のベルで起床し朝食をとらずに宿を出て、2・3時間は休まずにただひたすら歩く。またできれば宿に依頼して前夜中におにぎりを作ってもらい、私たちの就寝中に 玄関脇に置いていただき、宿の人が寝静まっている間に、まるで泥棒のように静かに出て行くことにした。 田舎の道は街灯もなく真っ暗でペンライトを頼りに川べりに沿って進む。途中少し道に迷って8時30分頃、13番大日寺に着く。大日寺という札所は3ヶ所ある。ここは県道をはさんで反対側には一宮神社がある。神仏混合時代には神社と寺が同じ境内にあった。
案内書によると、この大日寺は地元では「一宮さん」と呼ばれて親しまれているとある。 遅い朝食のおにぎりを頬張った後、次の札所へ進む。
13番大日寺から14番常楽寺、15番国分寺、16番観音寺、17番井戸寺と徳島市郊外の田園地帯の8キロ程の距離に5ヶ寺が続く。やがて井戸寺のあでやかな朱塗りの長屋門が見えてきた。この寺はこの地を訪れた大師が、飲み水が悪くて困っている人たちのために錫杖(しゃくじょう)で一夜のうちに掘ったといわれる井戸があり、これが寺名の由来となっているそうである。修行の旅に明け暮れた大師は病に苦しむ者には薬を与え、水に困っているときは池作りや井戸を掘り、常に庶民と苦楽を共にしたといわれる大師の偉大さが八十八ヶ所にはたくさん伝えられているようである。
井戸寺を打って2キロあまり進んだところで上鮎喰橋を渡り、徳島の中心街に入っていった。16じ過ぎに繁華街にある今夜の夜の宿の誠月荘に着いた。
(本日の参拝した札所と歩行距離)
植村旅館……<13.1キロ>……13大日寺……<2.3キロ>……14番常楽寺……<0.8キロ>……15番国分寺……<1.6キロ>……16番観音寺……<2.9キロ>……17番井戸寺……<8.2キロ>……旅館誠月荘
歩行距離合計28.9キロ

夕立ち(5日目)
平成7年7月11日(火)晴れ一時夕立あり

4時40分旅館誠月荘を出発。徳島市内の国道55号を南下して小松島市に入り、更に県道を約6キロ入った小高い山中に18番札所恩山寺がある。 朝食なしで途中20分の休憩をとっただけで、10.4キロの道を歩き7時40分にこの寺に着いた。
恩山寺は当初女人禁制の戒律の厳しい寺であったが、この寺に泊まった弘法大師が面会にきた母親が入れなかったのを悲しみ、大師は秘法を修して女人解禁を祈念、母を寺へ迎え入れて日夜孝養をつくしたといわれ、その後、寺名が恩山寺となったとの事である。山門 のそばにある唐木・びらんじゅの巨木は、母を迎え入れた時の大師の手植えと伝えられており、県の天然記念物に指定されている。 次の19番立江寺(タツエジ)に向かう途中、食堂が全く見当たらないので、菓子パンとジュースを購入してやっと朝食をとった。 その後、通りかかった。「ヤクルト」の配達のおばさんからヤクルトとヨーグルトのお接待を受けた。今まで何回かお接待を受けたが、四国の人々の遍路に対する暖かい心に、その度に感激しながら押し戴いたが、お接待の心はこれによって自分に功徳が返ってくるとの思いとともに、もう一つの意味は、お遍路さんを弘法大師とみたて、大師にお接待していると考えられているとのことである。
やがて立江寺に到着。ここは四国霊場に四つある関所の一つで、罪ある者は大師のおとがめを受け、時には前にすすめなくなると云われ、黒髪堂に寺宝として納められた鉦(かね)の緒は「享保3年、石見(イワミ・島根県)浜田の桜井屋銀兵衛の次女お京は、夫の要助を殺し蜜夫長蔵とともにこの寺まで逃げてきた時、黒髪が逆立って鉦の緒に巻きついてしまった」という、天罰を受けたお京の伝説によるものであるとのこと。 ここには遍路の墓が沢山あり、昔は病気その他の理由で故郷を出て、遍路している道中で亡くなったお遍路さんが数多くあったと云われている。 立江寺を打って間もなく夕立がやってきた。最初は「ポツポツ」であったが暫くして急に大雨になってきたので、近くの農協のガソリンスタンドで約30分休憩をとる。夕立があがると急に涼しくなり、それまでのうだるような暑さがまるで「うそ」のように爽やかになり、足取りも軽やかになった。その後、萱原のバス停前にある食堂で昼食をとっているとトラックの運転手らしい隣の客が話しかけてきたので、歩き遍路であること、夫婦で八十八ヶ所を通し打ちする予定であること等の話をすると「私も車で廻ったことがあるが歩いてお参りするとは、それは奇特だ。気を付けて行きなさい。お接待です。」と言われて千円札をいただいた。 食堂を出て国道123号を西へ西へと進み、前日に予約しておいた20番鶴林寺の麓にある民宿「金子屋」に投宿する。時間はやや早く3時前である。 明日はいよいよ次の「遍路ころがし」と言われている鶴林寺と21番太竜寺への二つの山を登り降りしなければならず、朝早くたつ予定であり暗い山道で迷わないように、明るいうちに道の確認のため妻と共に散歩に出た。
(本日の参拝した札所と歩行距離)
旅館誠月荘……<10.4キロ>……18番恩山寺……<3.8キロ>……19番立江寺……<10.3>……民宿金子屋
歩行距離合計24.5キロ

ひとり歩きの女遍路(6日目)
平成7年7月12日(水)晴れ後夕立ち

4時50分金子屋を出て、二つ目の「遍路ころがし」である20番鶴林寺に向かった。段々を息を切らしながら登ること約40分、「水呑大師」と称する水場があり、かたわらに゜「ひしゃく」があって゜「こんこん」と水が湧き出て流れている。宿を出てまだそれほど歩いていないが喉は゜「からから」だ。早速、汲んだが五臓六腑にしみわたるようで、まるで天国である。元気を取り戻して「へんろみち」の標識をたよりに山道を登る。 鶴林寺に6時20分に到着。納経所はまだ開いていない。四国88ヶ所霊場の納経所は申し合わせにより朝7時より夕方5時まで開けることになっている。 まず参拝を済ませ7時までに金子屋でつくってもらったおにぎりをいただく。これまで朝早く立った日が多かったが、これは先にも書いたように朝の涼しい間に出来るだけたくさん歩くためもあるが、もう一つは納経所の開く7時前頃に札所に着くように地図をみて出発しているためである。
このお寺は゜おつるさん」という愛称で親しまれ、標高550メートルの山頂にある。 12番焼山寺・21番太竜寺と併せた難所の一つで「一に焼山、二にお鶴、三に太竜、遍路泣く」といわれている。納経を終え、7時20分鶴林寺を出発。続いて次の難所の太竜寺に向かう。一度、約300メートル下ってその後また300メートル上がる。 山の地面が胸にせまるように感じるほどの厳しい坂道だ。札所間の距離は地図では6.5キロとあるが、山道は長く感じられる。
漸く到着したのは10時40分、通常バスや車のお遍路は山の反対側からロープウェイで登る。このロープウェイは3年前に開通したばかりで、全長2800メートルを10分間で結ぶという。寺は標高600メートルの山頂にあり、大師はここを修行の場に選び、100日間岩の上で座禅を組み読経したといわれ、昼でも暗い老杉が茂る境内は霊場らしい雰囲気をかもしだしている。
ここを打った後、11時過ぎに今夜宿泊予定の民宿龍山荘に向かう。杉林の中をどんどん下って行くと「坂口屋」と書いた看板が見えた。売店のようであるが店は閉まっている。夏はお遍路さんが少ないため開店しないのであろう。ここからは道路が舗装されていて、下り坂も緩やかになった。
やっと龍山荘に入ったのは午後1時半頃である。泊まるには少し時間が早すぎて、もったいないような気がしたが、考えてみると朝4時50分から「遍路ころがし」の山を二つ越えてきたのであるから、鋭気を養うため満足してお世話になることにした。暫く休んでいると宿の電話が鳴り、それを聞いた宿の奥さんの話によると「鶴林寺 からの電話で、今から女性の歩き遍路が鶴林寺を出て21番太竜寺を打ってから、こちらへ来るので宿泊の手配を頼みます。と云う依頼の伝言でした。」とのこと。
時計の針はすでに午後2時を指しており、計算してみるとこの宿に着くのは、早くても7時半頃になると思われ、夏の日が長いと云っても、山中の暗がりを女性一人で歩くのは大丈夫だろうかと心配した。
少し休憩した後風呂に入ったが、妻は相変わらず二人分の汗臭い遍路着を洗濯機にかけてくれている。着替え用の衣類は最初、肌着一揃えと寝間着がわりのTシャツ、白ズボン、靴下数足等を持参してきたが、炎天下や山登りの遍路にとってはリュックが肩に食い込み、1グラムでも軽くしないと途中でダウンするような気がしていた。
歩き遍路の体験者が万年筆1本が重く感じられて、途中でどんどん荷物を減らしていったと書いていたのを思い出した。幸いに宿の主人に聞くと宅急便があるというので、パンツ1枚とTシャツ1枚を残して他の衣類殆どと、ほかの不要品を含めて荷造りし宅送を依頼した。従ってパンツを除けば着替えは殆ど無いが、夏の事とて夜洗濯すれば翌朝には殆ど乾いており、僅かに分厚い靴下のみが湿っていたが、これも持参した電気ドライヤーが威力を発揮した。
この宿のご夫婦は、民宿の傍ら農業を営んでおられ、夕方少し涼しくなった頃「前の田んぼの殺虫に出ていきますますので、よろしく頼みます。」と留守番を頼まれた。7時20分、鶴林寺から連絡のあった女性遍路が到着した。40歳ぐらいだろうか?。聞くところによると、午後1時前に金子屋旅館を出たという。
私たちが4時50分にその旅館を出たことを思えば相当な強行軍である。昼から遍路ころがしを2ヶ所踏破しているが、年が若いからできたことだろう。外はすでに闇が迫り半分暗くなっていた。
(本日の参拝した札所と歩行距離)
民宿金子屋……<3.3キロ>山登り……20番鶴林寺(標高550メートル)……<6.5キロ>一旦降ってから山登り……21番太竜寺(標高600メートル)……<3.8キロ>山降り……龍山荘
歩行距離合計13.6キロ

大師にまつわる不思議な(7日目)
平成7年7月13日(木)晴れ

4時15分宿を出る。まだ外は暗い。ペンライトを便りにただひたすら歩く。約20分たって明るくなってきた。日の出は5時頃である。22番平等寺(びょうどうじ)に向かうが途中山道に入ると想像した以上の急な坂であった。 6時30分に着き、お参りをして納経所の開くのを待つ。1ヶ寺で般若心経を2回づつ唱えるので、今までに44回あげたことになり、漸くすらすらと淀みなく云えるようになった。この寺の本堂には、足の不自由な人が使った箱車や、ギブスなどが奉納されており、四国遍路わしていてこの寺にたどりついた時、ご利益で足腰が治り、歩けるようになった人たちのものと言われている。このような弘法大師にまつわる不思議な話は、八十八ヶ所の札所のいたるところにあるようで、今更ながら 大師の偉大さに感激したものである。7時10分納経所を出て一路23番薬王寺(やくおうじ)に向かう。約7キロ進むと車道に出て、次から次ぎへとトンネルを四つくぐる。最後の一の坂トンネルを出た頃は12時を過ぎており、暑さと空腹でさすがに疲れ言葉が出ない。だらだらとした緩い坂を下って行くと、やっとのことで「海賊船」と書いたおおきい食堂に飛び込み昼食休憩をとった。
2時過ぎに薬王寺に着く。この寺は「厄落し」の寺として知られ、石段の33段の女厄坂、61段の還暦の厄坂があって、1円玉、5円玉、10円玉等の小銭が沢山石段に置かれていた。厄除けにお参りに来た参詣者が石段を登りながら置いていくのであろうが、さすがに夏とあって お参り人も少なく、ほんの数名をみるのみである。納経ののち、前日予約しておいた寺のすぐ前にある「薬王寺参篭所薬師会館」に宿をとる。 前日、前々日と2日間続いた夕立も今日は無く、カンカン照りの炎天下の中で、しかも舗装道路が大半でくたくたになった。長距離歩行には足に優しい土道が有り難く、コンクリートの道は足にズシンズシンと響き、疲れも倍増するものである。
宿にリュックを置き妻とともに散歩がてら郵便局に現金を引き出しに行った。大阪を出る時、現金は十数万円持参し、八十万円ほどを郵便貯金にして持って来た。四国では、都市銀行は少なく、地方銀行は有っても僻地には無い。しかし郵便局は何処へ行ってもあると聞いていたので郵便貯金にした。
初日に遍路用品を購入し、更に毎日二人で一万五千円前後の出費(うち1泊2食の宿代が二人でおおむね一万二千円)となるので、途中郵便局をみつけては現金をおろしてきた。
夕食の時昨夜の女性(今後S女と呼ぶことにする )とまた一緒になった。聞くところによると二人の子供さんがあり、一人は高校生の女性で家事をしっかりと頼み、夫の理解のもとに念願の遍路に出てきたそうだ。
今日で徳島23ヶ寺わ打ち終え、いよいよ明日からは高知県の寺に向かうことになる。書物によると徳島県を゜発心の(ホッシン)の道場高知県を「修行の道場」愛媛県を「菩提の道場」香川県を「涅槃(ねはん)の道場」と云うとある。さて私は88ヶ所を巡拝した後で果たしてこの境地にいたることが出来るだろうか、所詮、凡人である私にはとても無理だろう。しかし、その様な境地に達しなくても私の一生にとって最大の得難い体験になるであろうことは想像に難くない。
(本日の参拝した札所と歩行距離)
龍山荘……<7.7キロ>……22番平等寺……<20.7>……23番薬王寺
歩行距離合計28.4キロ


最長四十八キロの遍路行(8日目)
平成7年7月14日(金)曇り後晴

4時15分宿を出る。昨日と同じ時間だ。今日は前々日より宿が一緒になったS女さんも私たちと同行されたので同行四人となった。(お大師さんも一緒?)
次の24番最御崎寺(ほつみさき)寺は室戸岬にあり、この間の距離は約90キロあり、普通は健脚家でも途中で2泊すると云われている。間もなく分かれ道に来て、どちらに進むべきか迷って、通り過ぎる車に手をあげ道を聞こうとするが、どの車も止まってくれない。
おそらく道を急いでいるか、便乗を頼まれるのではないかと思っているのかも知れない。やがて一旦通り過ぎた1台の車が、Uターンして戻ってきた。どうしたのだろうと思っていると「お遍路さん、室戸岬へはこちらの道を行きなさい。私の家内も区切り打ちで歩き遍路をしており、あなた方が道に迷っておられるようなので戻ってきました」
なるほど、奥さんが歩き遍路をしているので遍路の気持ちを察して、わざわざ戻って下さったのだ。最初4〜5時間は曇っていたため暑さもそれ程でもなく、快適な歩きができたが10時頃より猛烈な暑さになり、汗だくだくの遍路行となった。
12時過ぎ番外霊場第4番札所の八坂寺の近くまできた。この寺は別名鯖大師の名で知られており宿坊がある。すでに27.2キロ歩いており、朝早く出ていなければ、ここで1泊してもよいところである。しかし時間も早いのでS女さんと相談のうえ、先に進むことにして近くの公衆電話より「民宿みちしお」に今夜の宿泊をお願いをした。この民宿までは、まだここから約21キロあり海岸に沿って進むが、汗がたらたらと滝のように流れ落ち眼が霞んでくる。水筒のお茶は既にからっぽで喉はカラカラだ。
一番札所を出て8日目となったが、妻がよくここまでついてきたものだと思う。初めの予定では、彼女は時々電車やバスに乗る筈だった。この道も国道55号でバスが1日数本走っているが、何時「おとうさん、もう疲れた。バスに乗りたい」と云うかと思っているが、ただ、ひたすら私についてくる。元来妻は方向音痴で東西南北がわからないようである。一人になると不安なのだ。時計を見ると針は3時をさしており、うだるようだ。民宿まであと6キロだ。喫茶店を見つけて飛び込む。3人とも「かき氷」を注文する。その冷たさが喉にしみとおり、まさに極楽浄土の世界である。
小休憩のあとで出発。直ぐに水床トンネルに入る。トンネルを出て間もなく視界が開け眼下に甲浦(かんのうら)港が見えた。やっと修行の道場である高知県に入ったのだ。このあと約1時間で予約した民宿に着いた。この民宿は海辺にあり、この辺り一帯は「生見サーフィンビーチ」と呼ばれるサーフィンの名所で、数年前落雷があってサーフィン客が数名亡くなったそうだ。従って今日の宿泊客も、殆どサーフィンに来た若者たちで賑わい満室であった。時計はすでに5時半を指しており、早速入浴を済ませ階下の食堂で夕食を取る。地図で調べると、今日は朝の4時過ぎから夕方5時半まで、途中若干の休憩を入れて13時間、48.8キロを歩いたことになる。大阪から京都までが43キロだから我ながら驚いた。明日からはもう少し短くして、無理をしないようにしょう。そうでないと途中でダウンしては何にもならない。朝早い代わりに夜も早い。9時には床に就いた。
(本日の参拝した札所と歩行距離) 薬王寺参篭所薬師会館……<27.2キロ>……番外霊場4番八坂寺(鯖大師)……<21.6キロ>……民宿みちしお
歩行距離合計48.8キロ
お大師さんが修行した御蔵洞(9日目)
平成7年7月15日(土)晴

4時10分宿を出て室戸岬に向かう。今日もS女と一緒だ。海岸線の連続で7時を過ぎると「ギラギラ」と日差しも強くなってきた。しかも南に向かって東海岸を進むため、さえぎるものは全くない。しかしこの道は殆ど「阿南室戸国立公園」に指定された地域で海岸線の美しさは筆舌に尽くし難い。10キロ余り進んでいよいよ室戸市に入った。室戸岬まであと25キロと書いた標識の下で小休止わとる。
暑さのため足は熱を含んで火照っており、女性二人は靴を脱いだが、S女は靴が足にあっていないのか靴づれをして泣きそうな顔をしている。「さあ、先はまだ長い頑張ろう。」暫くすると海岸で貝取りにきていた人が「お遍路さん。私はこれから室戸まで帰るから、車に乗って下さい」「有り難う御座います。お心は大変有り難いですが、ご覧の通り私たちは歩き遍路で、まだ歩きたいので」「そうですか。では気を付けて行ってくだされ」お断りするのが何か悪いような気がした。四国の人々は大抵、自分の近くの札所は知っていて、歩き遍路を見ると今何処へ行こうとしているかが解るのだ。3時40分、室戸岬に着く。岬の少し手前に白亜の「青年大師像」が高くそびえている。案内の本によると、弘法大師19歳の像で高さ21メートルあり、ニューセラミック仕上げとある。少し進むと今度は海岸の近くに、大師が修行したといわれる巨大な御蔵洞(ミクロドウ)と呼ばれる洞窟があった。大師は19歳の時、この洞窟に篭り修行して本当の悟りを得たと云われており、洞窟の中から外を見た空と海の景色から、自分の名前を空海としたとの言い伝えがあるようだ。
私はこの時既に66歳、未だに欲心去らず。短気にして直ぐに頭に血がのぼる性格が直らず、我が身のいたらなさを痛感したが、これも凡人のことで持って生まれた性格かとあきらめざるを得ず……と云ってしまってよいのだろうか?
さて、この室戸岬一体は無数の奇岩怪石が太平洋の黒潮に洗われる絶景で、しばらく岩礁の上や間の散策道を散歩した後、24番最御崎寺(ホツミサキジ)に向かった。札所はこの山上にあり、急な山道をのぼらなければならない。車の場合は約1キロ先にスカイライン登り口があり、門前に横付け出来る。23番から24番札所の最御崎寺までは約84キロの道のりで、札所間の距離としては2番目に長い道程である。道標に従って右の山道に入る。炎天下の舗装道路を歩くことにうんざりしていたのでほっとする。既に35キロ歩いた後で、大分疲れているが、同行四人(お大師さん、私、妻、S女)が声をかけ励ましあいながら、遍路ころがしを登って行った。ついにあの台風で名高い室戸岬の頂上に建つ24番最御崎寺に着いた。今日はこの寺の宿坊を予約しておいたが、夏のこととてお遍路さんの客は私たち3名のみで、宿坊はガランとしていた。夕食はどうやら寺の檀家さんと思われる人達の会食と隣あわせとなった。

(本日の参拝した札所と歩行距離) 民宿みちしお……<35.6キロ>……24番最御崎寺
歩行距離合計35.6キロ

7キロ減った体重(10日目)
平成7年7月16日(日)晴

4時40分宿坊を出る。毎日毎日晴天が続くが今日もどうやら晴れのようだ。
標高50メートルの室戸岬の頂上に立つ寺より、スカイラインの車道をくねくねと下っていくと、夜が漸く白みかけ下を見ると沖合いを漁船が行く。さすが朝の5時前後は涼しく快適な歩きである。6時20分、25番札所の津照寺(シンショウジ)に着くこの寺の本堂は100段を越える急な石段を登り、山門をくぐったところにあり、夜は扉わ締めて鍵をかけ、ローソク、線香たて等その他一切のものが本堂にいれてあり朝7時にならないと開かない様になっていた。仕方がないので、昨夜の宿坊でつくってもらった朝食のおにぎるを頬張り、本堂の開くのを待つ。しかし、7時わ過ぎ13分になっても開けにくる様子がなく、参拝の人も3〜4人たまったので、連絡のため石段の下に降りると納経所は開いており、そこには「髭づら」の人に「本堂を開けてもらえませんか」と依頼すると「私はアルバイトです。奥へ云って下さい」仕方なく、直ぐ横の玄関に入って大声で「本堂を開けて下さい」と叫ぶと、二階より女性の返事があり、漸く本堂が開けられた。この女性は黙って本堂を開けるのみで、遅れたことわりの言葉もなく感じがよくなかった。
人として生きる道として「十善戒」という真言宗の教えがある。
不殺生(フセッショウ)……………………………殺生しない
不愉盗(フチュウトウ)……………………………盗みをしない
不邪淫(フシジャイン)………………………… 邪淫はしない
不妄語(フモウゴ)…………………………… 嘘をつかない
不綺語(フキゴ)………………………………お世辞を言わない
不悪口(フアック)………………………………悪口を言わない
不両舌(フリョウゼツ)………………………… 二枚舌を使わない
不慳貪(フケンドン)……………………………欲張らない
不瞋恚(フシンニ)………………………………怒らない
不邪見(フジャケン)……………………………誤った考えをおこさない
私は今、このうちの「不悪口」の教えを守っていないのではなかろうか。この寺で熊本より自動車で来たという夫婦遍路に出会ったが、主人が胸に亡くなった家族の遺影を掲げ、奥さんが位牌を手に持っておられたので聞くと、亡き先祖や兄弟の供養のために遍路に来ましたと云われ、本堂の前に額づいて、一生懸命に般若心経を何度も何度もあげておられた。今日はS女さんは、私たちよりやや遅れて宿坊を出られたそうだが、この札所で一緒になり、次の札所へは先に出発された。
26番金剛頂(コンゴウチョウジ)へ向かう途中、公衆電話ボックスで大阪へ電話を入れ、そこから1キロばかり進んだ頃、妻が「あっ、杖を忘れた。多分さっきの電話ボックスだわ」と素頓狂な声をだした。「ここで待っとれ。取りに行ってくるから」とリュックを妻に預け、一目散に走って戻ると、確かに電話ボックスの中に立てかけてあるのを見つけ胸をなでおろしたが、金剛杖は弘法大師の身代わりであると云われており、又遍路中は宿に入ったら真っ先に杖の先を洗い清め、部屋に立てかけておくものと聞いていたので、その喜びは大変なものであった。
金剛頂寺は室戸市の崎山台地の頂きにあり、寺の高台から眺めると、室戸の海岸線が弧を描いて先の方に見える。巡拝の後海岸線を北上し、4時10分に予約しておいた「ビジネスホテルなはり」に到着した。今日もうだるような暑い一日で、途中かき氷を食べたが実にうまかった。妻は途中で「お父さん、痩せて真っ黒になってたいへんやねえ」という。「いいや、そうやないんやで。いいことしてるんやで」返しながら前進する。入浴後、体重を量ると、大阪を出発するときは50キロあったが43キロに減っており鏡を見ると真っ黒に日焼けし、頬はこけおちていた。若い女性がダイエットに必死なり、食をおさえている話をよく聞くが、帰阪したら冗談ででも「ダイエットしたいなら、四国の歩き遍路をしなさい」と云おうかと思った?
(本日の参拝した札所と歩行距離) 24番最御崎寺……<6.8キロ>……25番津照寺……<4.0キロ>……26番金剛頂寺……<20.1キロ>……ビジネスホテル
歩行距離合計30.9キロ

神峰寺への遍路ころがし(11日目)
平成7年7月17日(月)曇り後雨後晴

4時、ホテルを出る。今日は27番神峰寺(コウノミネジ)への遍路ころがしだ。距離にして約6キロ、1時間半ばかり進んでから右折してしばらく行くと、いよいよ神峰寺への登山道に入る。胸を突くような急坂の道で、妻は、「フウフウ」と息を切らせている。心臓が破れそうな遍路泣かせの道だ。途中何回か休息をとりながら登り、出発してから3時間20分、やっと神峰寺にたどり着いた。寺は標高570メートルの神峰寺の山頂にあり納経所から更に石段を数十段上ったところに本堂と太師堂があった。巡拝が済んで納経所に寄ると、住職の奥さんより「疲れたでしょう。さあ、召し上がれ」とバナナとお饅頭、お茶の接待を受けた。お聞きすると歩き遍路にだけのお接待だそうだ。また、ここには「お大師の水」と書かれた湧き水があり飲むと冷たく喉にしみとおり如何とも表現し難い程美味しかった。
札所を出て急坂を約4キロ下った頃から雨が降り出し、暫くすると急に激しくなってきた。ふと先を見ると農機具小屋と思われる建物があり、これ幸いと飛び込んで雨宿りをすること30分。少し小止みになってきたので出発する。海岸線に出て安芸市に入り、大山茶屋という食堂で遅い昼食をとったが、この食堂で妻が靴を脱いで足の蒸れを癒していると「奥さん、これを付けたら良く効きますよ。蟹の甲羅のエキスです。差し上げますから塗ってみて下さい」といって店の女主人から頂いた。その後、このエキスを宿で何回か足の手入れに使ったが、靴ずれの予防に大変重宝したものである。ここから1時間あまりで安芸市の中心街に入り、旅館清月に投宿する。この宿は前日に予約しておいたものだが、交差点の角にあり、夜どうし自動車の騒音に悩まされ、その上、私たちの部屋は冷房がなく睡眠不足となった。この宿でもS女さんと一諸になったが、彼女は足に豆ができて、相当痛そうであった。今日の歩行距離は25キロと比較的短く?早く宿に着いたが、喉がカラカラだったのでかき氷を食べるべく妻と街へ散歩に出たが、どの喫茶店にもかき氷は無かった。
(本日の参拝した札所と歩行距離) ビジネスホテルなはり…………28番神峰寺…………旅館清月
歩行距離合計25キロ

善根宿(12日目)
平成7年7月18日(火)晴れ

4時10分、睡眠不足の眼をこすりながら28番大日寺に向かう。大日寺という名の寺は四国88ヶ所には3ヶ所ある。ちなみに国分寺は各県に一つづつあって四つあり、また、観音寺は二つある。3キロ程進むと車道と少し離れて、平行して通っている自転車専用道路があり、自然豊かで静かな散歩道となっている。この道路が海岸線沿いに約15キロ続いており、風も出てきて快適な遍路行となった。
特に午後は菅笠が飛ばされそうになるほどの強風となり、汗の出も極めて少なく、妻の足取りも心なしか、いつもより軽やかにみえた。風の無い日は暑さと疲れから、歩きながら眠気を催してきて足がよろめき、時々「はっ」となる事が度々あり、たまには一諸に「一二三、一二三」と声を掛合ったり「南無大師遍照金剛」と大師宝号を唱え乍ら歩いた。この道の途中に身体障害者である辻 典子さんが多分足で書いたと思われる書の碑があった。妻は有名な書家に就いて20年近く書を習っているが、この書は北原白秋の詩である「雨」を書いたものであるが感心して見入っていた。
12時過ぎ大日寺に到着。この札所は天然記念物に指定されている゜「竜河洞」の南西の小山の上にあった。参拝の後、今夜の宿を予約するため「四国遍路ひとり歩き同行二人」の本に掲載されている善根宿の都築晴夫さんに電話を入れ一夜の宿をお願いしたが、快く引き受けて下さった。
大日寺から1時間あまりで都築さん宅に着いた。この人は花造りや田畑の耕作をしておられる農家で、昔、腰痛に悩まされた時に遍路をして大師のご利益により元気になったのでその後は歩き遍路に宿泊・食事・休憩の無料接待をされておられるとのことで、誠に頭の下がる思いがした。この日は数ヶ月前から都築さんの農業を手伝いながら、居着いている先客が二人いて、一人は髭面の熊さん(本名は不明)という男性で、もう一人は30才近いと思われる女性である。このほかに数日前から時々同行したSさんも一緒になり、都合5名となったが、都築さんが遍路を泊めるために特別に改築された部屋は2〜3名が精一杯で、私たち夫婦は、少し離れたところにある母屋の立派なお部屋に泊めて頂く事になった。
洗濯と入浴をさせていただいた後、都築さん夫婦のほか全員で般若心経等のお経をあげてから夕食を頂いたが、その素朴で親切な心のこもったお接待に感動した。また、お遍路に出てから少し野菜不足気味であったが、この日の食事は久し振りに盛沢山の野菜が出て感激したものである。食事が終ってから熊さんから「辻本さん、歩いていると車のお接待の声がかかるでしょうが、どうしていますか?」「歩くのが目的ですから、丁重にお断りしてきました。」「それはおやめになって、車のお接待も是非受けて下さい。断られると、今後その人は歩き遍路に声をかけなくなり、乗せてもらいたいと思っているお遍路さんもいますので、これからからは出来れば乗って下さい」この話を聞いてなるほどと思い、自分のことだけを考えず他人に対する思いやりの心と四国の人々の遍路に対する接し方や人情に打たれた。
その後大阪に帰ってから礼状を、又翌年に年賀状をお出ししたが、いただいた年賀状によると、「昨年の家族は151人でしたが、今年はどんな出会いがあるか楽しみです。」とあり泊まった遍路を家族と云われる心にはただただ感激した。
(注)四国にはお遍路さんに一夜の宿と食事を提供し、もてなす風習があり、遍路にこのような善根を施すことによって、自分に功徳が返ってくると云われた。
(本日の参拝した札所と歩行距離) 旅館清月……24.2キロ……28番大日寺……3.4キロ……善根宿
歩行距離合計27.6キロ

昔は二つあった30番札所(13日目)
平成7年7月19日(水)晴れ時々曇り

5時都築さんに朝食用のおにぎりをいただき母屋を出る。まだ外は薄暗い。 朝早いにもかかわらず表まで出て、道を教えて頂き見送ってくださった。田園地帯を進む事1時間30分で第29番国分寺に着く。この寺の境内に「酒断(酒断地蔵尊)」というお地蔵さんがある。如何にも土佐の国らしい。あちこちから祈願にくる人が多いという。朝食のおにぎりを頂いた後、高知市にある第30番善楽寺に向かう。以前は30番札所は善楽寺と安楽寺があり、両寺とも同じ住職でともに30番札所を名乗っていて「遍路迷わし札所」として長く続いていて、遍路は遍路は「どちらへ参ろうかむと迷ったといわれたとのこと。この本家争いも最近話し合いがつき、30番は善楽寺。長い間30番札所を名乗った安楽寺は奥の院という事になったそうである。
その善楽寺を巡拝した後、同じ高知市にある31番竹林寺に行く途中で、観光旅行中の一人旅の若い女性に「済みませんが、写真わ撮らせていただけませんか」と頼まれた。 恐らく二人ともリュックを背負っていて、歩き遍路であることが分かり、珍しいと思ったのだろう。 更に市電の線路に沿って進み、サンピア通りに出たところで道を間違え、15分程ロスをしたが、わずかな回り道でも夏の遍路にとつては、とても長く感じられたものである。
竹林寺は高知市内を見下ろす標高140メートルの五台さん山の山上にあり、山門からゆるやかに延びる石段を上がると、本道と太子堂が向かい合って建ち、立派な五重塔や山腹を背景にした見事な庭園などが、美しいたたずまいを見せ思わず「ワンダフル」と声が出た。ここからは、遥か下に浦戸湾を望む事が出来、まことに見事な借景で一服の清涼剤となった。また、この札所は坂本竜馬の像のある桂浜に近く、春は観光客が多いそうだが、さすがに真夏の事とて全く観光客の姿は見なかった。
次の32番禅師峰寺(ゼンシブジ)までは6キロ焼く時間20分で到着した。ここは標高80メートルの峰上の頂にあり、境内からは海岸線が下方に見え、遥か向こうに太平洋の雄姿が望め素晴らしい眺めであった。禅師峰寺のある南国市から、またまた高知市に入り、予約しておいた民宿みゆきに4時到着。今日は4ケ寺わ打ち30キロ余りの遍路行であるが、大阪わ出てから14日目となり足も大分慣れてきた。妻も私と一緒に歩き、疲れも相当たまっていると思われるが、精神力で私についてきた。しかし今日までの歩行距離は約360キロで全行程の3割程にあたり、残り900キロ程の道のりを思うと気が遠くなるほど先はまだまだ長く、今日のように4ケ寺も打つことは珍しいことである。
宿の近くの浦戸湾には造船所があり、その造船所で働いている人達が、この宿に長期間滞在しており夕食を共にした。ここでも又S女さんと一緒になった。
(本日の参拝した札所と歩行距離) 善根宿(都築さん)……5.6キロ……39番国分寺……7.0キロ……30番善楽寺……7.8キロ…… 31番竹林寺……6.0キロ……32番禅師峰寺……4.1キロ……民宿みゆき
歩行距離合計30.5キロ

山上の国民宿舎と遍路の友情(14日目)
平成7年7月20日(木)晴れ

5時25分、民宿みゆきを出て第33番雪蹊寺(セッケイジ)に向かう。
この札所に行くには、浦戸湾わ渡る渡し舟(フェリー)に乗る方法と、もう一つは少し大回りして浦戸大橋を渡る道がある。私たち夫婦は渡し舟に乗ることにした。昨夜、S女さんと話をした時、彼女は「歩き」が目的なので渡し舟には乗らないという事なので、出発は別々になった。
乗船場に6時少し前に到着したが、渡し舟は6時30分まで無い事がわかった。30分以上も待つのは惜しい気がしたので浦戸大橋を渡ることにした。7時前に雪蹊寺に着く。ここは四国八十八ケ所に二つだけある臨済宗のうちの一つの札所で、こじんまりとして閑静な境内で本堂は質素な平屋造りである。
ここを出て第34番種間寺(タネマジ)を目指したが、その途中の道端で2〜3人のおばあさんが、トマトや野菜を並べて売っていたので早速トマトを買い求めた。トマトは150円の値札が付いていたが、歩き遍路への心遣いか、「お金はよろしいです。どうぞ持っていってあがって下さい」折角の好意であるお接待としていただくべきか迷ったが、お年寄りが精を出して作ったトマトを売っておられるようで気の毒に思い「有難う御座います。それでは100円にまけてくださいな」このトマトはスーパーに売っているのとは違い、形は不揃いであるが、その美味しさは喉にしみとおり如何とも表現し難いほどだった。
やがて、のどかな田園地帯の中に種間寺が見えてきた。白い塀に沿って石の地蔵さんが沢山並んで見え、その先の観音堂には、沢山の底の抜けた柄杓がぶら下がっている。聞くと「底を抜いて通りをよくし、子供の安産が出来るよう」と安産祈願のためだそうだ。巡拝した後、寺の前にある食堂でウドンを食べていると70歳代と思われるおばあさんが近づいてきて「自分は病あがりの時、お遍路をした。もっとも車でだけど。あんた達は歩いてお参りしているのかね」「ハイ、そうです。88番まで行く予定です」「それは大変だ。気をつけてお参りなはれ。お接待をしましょう」と500円づつ計1000円のお接待を受けた。
更に次の第35番清滝寺(キヨタキジ)へ向かう途中、後から40歳前後の女性が追っかけてきて、「お遍路さん、お接待させてください」と500円のお接待を受け、続いてまた、もう一人の女性からも1000円のお接待を受けた。これで都合3人のかたから2500円のお接待だ。このお接待のお金は有意義に使わねば頂いた人々に申し訳ない。清滝寺は高岡町の商店街を抜けて40分程進み、更に約1キロの急な坂道の上にあった。坂道の下で既に打ち終えて下ってきたS女さんに又出会った。妻が相当疲れているようなので、ここで10分程休憩してから上り始める。1キロばかり曲がりくねった急坂が続く。仁王門を入り99段の石段をあがると正面に本堂が見え、その近くに野天の巨大な薬師如来像が、優しい眼差しで私たちを迎えてくれ、ほのぼのとした温もりを感じた。
清滝寺を打って急坂を下った後、高岡町の市街地の食堂で冷麺を注文したが、待てども待てども出てこない。客は私たち以外は誰もいない。ひよっとしたら材料を買いに走ったのだろうか。まさか? やっとのことで昼食にありついたのは、注文してから40分も経っていたと思われる。その代わりというべきか色とりどりのかやくで、きれいに飾られており、これなら時間がかかる筈だと納得した。 しかし大阪だったら客は逃げてしまうのではないかと思った。
食堂を出て街わ通り抜け南へ南へと進み塚地峠へ向かう。この峠は標高200メートルとあまり高くないが勾配が急で、息を切らして登ると、又直ぐにに急坂の下りとなった。やがて村落に出たところで妻が尿意を訴えたので近くの小さな喫茶店に入り例の如く「かき氷」を注文する。久しぶりの゜かき氷」で元気を取り戻し「おいくらですか」「はい150円いただきます」私は耳を疑った。普通なら倍の300円はするだろう。
やがて長い宇佐大橋が見え、その橋を渡って更に3キロ先に第36番青龍寺(ショウリュウジ)があるが、すでに納経所の締切時間の5時を過ぎていたので、巡拝は明日にすることにして、予約しておいた「国民宿舎土佐」に向かう。近くにいた50歳位の女性に「すみません。国民宿舎へ行きたいのですが」「あの上に見えているのが国民宿舎ですよ。そこからバスがあるから乗ったら」指差す方向を見ると遥か山の上に建物が見える。妻は相当疲れている様子なので「お前はバスに乗ったら」「まだ歩けるから頑張ります。」妻の言葉にのって、舗装された坂道をを励まし励まし進む。途中であの野球の甲子園出場で有名な明徳義塾と書いたバスが、選手たちを乗せて私たちを追い抜いて行った。1時間ほどで6時45分暫く宿に到着したが、周囲は少し薄暗くなっていた。
今朝「民宿みゆき」を出てから13時間20分、途中何回か休憩したが、暑さもピークに達して日中は35度程になっていると思われ、まさに修行の道場にふさわしい道のりだ。この宿を選んだのは、太平洋を望む高台の先にあるので、さぞかし景色が良いだろうと思ったためだが、妻は「景色が良くなくてもいいから、次からは高い所の宿は、やめて欲しい」さすがに今日は参ったらしい。宿に着くと先に着いていたS 女さんが玄関に出て待っていて「辻本さん、心配していたのよ。さあ、早く風呂に入って。洗濯は私がするから早く脱いで出して頂戴」有難いことだ。私達が着くのを待っていてくれたのだ。遍路仲間の善根にただただ感謝感激。早速その言葉に甘え疲れを落として、3人で夕食をともにし雑談に花を咲かせた。
(本日の参拝した札所と歩行距離)
民宿みゆき……4.5キロ……33番雪蹊寺……6.5キロ……34番種間寺……9.6キロ…… 35番清滝寺……16.2キロ……国民宿舎土佐
歩行距離合計36.8キロ

悲しみを背負った遍路の話(15日目)
平成7年7月21日(金)晴れ

6時15分、国民宿舎の玄関前で、雄大な太平洋をバックに記念写真を撮り青龍寺に向かう。S女さんは昨日のうちに青龍寺を打っているので別行動だ。坂道を下る事30分。苔むした石仏がたたずむ参道をたどると古びた石段の上に仁王門が見え、更にそこから170段の石段を上がって処に青龍寺があった。この寺は弘法大師が真言密教の修行のため唐へ渡る途中、暴風雨で遭難しかかったとき、一心に祈ると不動明王が現れて波風を沈めた。本尊はそのその時の不動明王の姿を大師自ら刻んだものと言われ、以来゛波切不動明王゛と呼ばれ海上安全の寺とされている。
巡拝のあと、色鮮やかな朱塗りの三重の塔の前で記念撮影。そこで上半身を裸になって汗を拭っていた遍路に出会う。お互いに自己紹介をしたところ、その方は横山広佳といい62歳で静岡県藤枝市より来たとの事。静岡鉄道を定年退職し現在は結婚式場のバスの運転手をしていて、夏は結婚式が殆ど無く暇だから来た。昨年も通し打ちの歩き遍路をし2回目だという。 そこから私達が先に進んだが、妻がトイレに立ち寄ったのと、横山氏が背が高くコンパスが大きいためすぐに追いつかれた。暫く3人で同行した後、道端で小休止し、横山氏がお接待を受けたというブドウをいただいたが、こんな美味しいブドウは滅多に無いと思った程だ。そこからは横山氏に先に行ってもらう。
宇佐の港から西へは「波切三里」という細長く伸びる湖水のような入り江が続き、ぐねぐねと曲がりくねった道が続く。空腹で腹の虫が泣き出した。地図を見ると2キロ先に「水上レストラン浦の内」がある。一、二、一、二、と声を掛け合いながら目的のレストランに着いたが、あいにく休みである。入り口が開いていたので入ると人がいる。「今日は休みですか。食事が駄目なら飲み物が欲しいのですが」「いいですよ、どうぞ」ジュースを買って腹の虫をごまかす。店を出て「横波」のバス停を過ぎてから、やっと食事にありついた。次の佛坂峠は標高140メートルでさほど高くないが、峠を避けて車道を通ったためか思ったより長く感じられた。やがて須崎の市街地に入り目抜き通りを進むと、車の渋滞が2〜3キロつづき、その騒音と排気ガスに悩まされた。
37番岩本寺までは道のりが長いので、今日は昨夜予約しておいた須崎市の西部、新荘川のほとりにある「ひかり」に宿をとる。 なお、今日も妻が民家のトイレを借りた時、500円のお接待を受けた。 この宿には先に進んだ横山氏も投宿しており、そのほかに建設関係の人が長期滞在していて皆で賑やかに夕食をともにしたが、その席上、おかみさんより遍路にまつわる色々の話を聞いたが、その中でも心に深く残ったのは
「ある日、若い女性の遍路が泊ったが、年は33歳と言い『若いみそらで、どうして遍路をしているのですか?何か訳がお有でしょう。よかったら聞かして頂戴』というと、ポツリポツリと話はじめたところでは、北海道から遍路にきたこと、あの奥尻地震で夫と子供を失ったこと、あの時子供は自分の目の前で津波にさらわれていくのを見ながら、どうしょうもなかったこと、その時の子供の『おかあちゃん救けてー』と叫ぶ声が今も耳にやきついているといい、毎日悲しみにくれていたが、ある日、四国遍路を思い立ち、二人の供養をしながら歩いています。遍路に来て本当に良かったと言っていた」
昔の遍路は、自分や肉親が病気に悩んでいるとか、亡くなった親子兄弟の供養の為とか、何かいわくつきの遍路が多かったと聞いており、最近のように観光バスで「さっ」と来て急いでお参りし「さっ」と去っていく遍路が多いことを思うと今昔の感がある。
(本日の参拝した札所と歩行距離)
民宿宿舎土佐……0.8キロ……36番青龍寺……26.1キロ……民宿ひかり
歩行距離合計26.9キロ

雨中の兎と亀(16日目)
平成7年7月22日(土)雨
3時5分、民宿を横山氏と一緒に出発。こんなに早く宿をでたのは初めてだ。昨夜横山氏と相談した結果、3時と定めた。雨が「しょぼしょぼ」とふっている。晴れと曇りと雨、このうちお天気はどれがよいだろうか?言うまでも無く「晴れ」にきまっている。まして旅行の場合はなおさらのことだろう。おっとどっこい、ところが35度前後の炎天下を歩く遍路にとってはそうではない。少なくとも私にとっては日中は曇りが一番で、更に欲を言えば適度の風があれば云うことはない。
二番目に良い天候と云えばカンカン照りの晴れよりも小雨の方がしのぎやすい。雨は降ったり止んだりの繰り返しで、何回も雨宿りをしながら進む。しばらくは横山氏と同行したが、歩幅に差があり先に行ってもらうことにした。途中に三つの峠があったが、三つ目の七子峠(ナナコトウゲ)は相当長い距離で雨が厳しく降りしきる中を歩く。透明なビニールカバーが菅笠を覆っているので、頭と顔だけは雨から守られるが、リュツクを背負っているので、その上から雨合羽を着たら暑さで身体中が蒸れて汗ビショビショになる。雨は益々激しくなりズボンと靴はずぶ濡れになったが、もう雨に打たれるのには慣れてきた。
やっと峠に着くと若者達が自動車を止めて騒いでおり、ふと横に目をやると横山氏が上半身裸になってタオルで拭いていたので、声をかけると「やあ早かったねえ。少々足が速くても休憩すれば直ぐ追いつかれるね」ここで子供の頃に聞いた兎と亀の話を思い出した。足の速い兎が油断して途中で昼寝わしたために亀に追い越されて負けた話だ。「ところで辻村さん。今夜は何処に泊る予定ですか、私は次の岩本寺の宿坊に予約しました一諸にとまりませんか」彼は時々、私達を辻村さんと呼ぶが、あえて訂正しないことにした。
彼のその声や話しっぷりは実に楽しく、かつ親しみやすく聞こえる。「実は、もう札所の近くの伊予屋旅館に予約してあるので」「解約して一緒に泊りましょうよ」しかし、既に夕食の材料を手配しているかもしれず、解約すれば困るかもしれない。四国の小さな宿は客が少なく、特に遍路の少ないなつは全く客の無い日も多いことを知っていたので「済みませんが、予約した所にします」と云って分かれた。七子峠から舗装された道をどんどん下り岩本寺に着いたのは2時前で、横山氏は既に着いて休んでいた。
この寺は四万十川の上流の窪川町にあり、境内は大変狭く感じた。本堂の天井には花や動物、更には仏様など数百枚の絵が色鮮やかに描かれていて目をみはるばかりだつた。雨はますます激しくなり「どしゃぶり」になってきた。ここを打ち終え予約した伊予屋に投宿する。時間が早く風呂は準備できていないので、シャワーを浴びた後しばらく昼寝する。
今日は道中でで睡魔に襲われ、歩きながらも、つい「こっくり」となり、まことに危なげな足取りとなったが、今までもこんな事は再三再四あり、いくら睡眠をとっても駄目で、やはり朝が早いのと暑さと疲労からくるものだろう。
やがて6時になり宿の奥さんが「シャワーをしたので、お風呂はもういいでしょう」「はあ、結構です」本当は欲しいのだが欲しいと云えずに返事をする。「それでは食事にご案内しますから」と声がかかったので、階下に降りると「どうぞ下駄を履いて下さい」何処へ連れていくのかと思っていると、向かいの飲食店に案内された。何のことは無い。夏は客が少ないためか伊予屋旅館は素泊まりのみで、夕食は別で、どうやらこの飲食店と提携しているらしい。参考までに素泊まりの料金は4.500円である。なお、今日まで泊った宿は民宿や寺の宿坊ビジネスホテルなど1泊2食で5.000円乃至6.000円が殆どで、柳水庵は4.000円でなかには「歩き遍路だけ500円負けときます」というところもあった。
(本日の参拝した札所と歩行距離)
民宿ひかり……16.2キロ……七子峠……13.3キロ……37番 岩本寺……0.1キロ……伊予屋旅館
歩行距離合計29.6キロ

(注) 今日は朝3時に宿をでたために車道を歩いたが、七子峠の近くには自然豊かな「そえみみず遍路道」がある。この遍路道は土佐中央と南西部を結ぶ往還の道として、古くから人馬で賑ってきた。遍路先人達も皆この道を辿って行った。次回は是非この遍路道を歩いてみよう。

雨やどりと尿意(17日目)
平成7年7月23日(日)曇り時々雨
3時15分宿を出る。今日は日曜日だが遍路をしていると曜日がわからなくなる。テレビは勿論、新聞を見ることも殆ど無く俗世間から離れた日々を送っているからだろうか。勤めていた頃は日曜日が待ち遠しかったが、今は日曜日だろうが月曜日だろうが全く関係無い。真っ暗な道をペンライトの光を頼りに歩く。民家の無い田舎道は真の暗闇で一寸先が見えないと云ってもよい程だ。一時間あまり経った頃突然雨が降り出した。幸い近くにあった民家の軒先に退避する。その後も再三雨になり、暫くすると大雨になってきたので再度近くの民家の軒先に飛び込み様子わ見る。その時尿意をもよおしてきたので声を掛けたが誰も出て来ない。ふと横を見るとトイレがあり、扉を引く開いたので黙ってトイレを借りる。
これだと泥棒が入っても気づかない。全く不用心なことだ。15分程で少しこやみになったので前に進み、途中、峠の喫茶店に入り持参のドライヤーで靴と靴下を乾かしたら快適になった。次の38番金剛福寺(コンゴウフクジ)は四国の最南端足摺岬にあり、37番から90キロあり88ケ所の寺間の距離としては最長で普通は3日乃至4日の難渋な旅であるが、私達夫婦はその間で2泊を予定して、今日は大方町にある水鏡荘に電話して宿を依頼しておいた。
佐賀町役場を過ぎて1キロ程行くと海岸線に出た。 今日は台風3号の影響で海は大荒れだったが、それから先の海岸は景色の美しい所が多く、風も相当あり爽やかな1日となった。2時20分水鏡荘に着く。ここは海辺の宿で建物は古く、60歳位の女主人が出てきて部屋に案内されたが、殺風景な部屋で畳も相当に傷んでいた。今日も宿を出たのが早く32キロ程を歩き、妻も相当疲れていたので、洗濯のあと1時間あまり昼寝する。夕食後「すみませんが、明日は朝早く出たいので朝食はいりませんが、出来れば「おにぎり」を作ってもらえませんか」と依頼すると「私は余りしたことがないので下手くそですから、よければ自分で握ってくれませんか」早速お櫃を預かり妻が握ったが、一人で民宿を経営しているのに客に作らすとはと真に奇異な感じがした。太平洋の荒波の音を聞きながら床に就いた。

(本日の参拝した札所と歩行距離)
伊予屋旅館………31.8キロ………水鏡荘
歩行距離合計31.8キロ

良心市のトマト(18日目)
平成7年7月24日(月)雨時々曇り

3時25分水鏡荘を出る。3日間連続で3時過ぎの出発である。間もなく雨が降り出し、その後も降ったり止んだりで雨宿りと歩きの繰り返しが続く。やがて下田口のバス停まできたが、ここからは下田経由の道と中村市内経由の道に分かれるようになっている。下田経由の方が3キロばかり距離が短いが、途中で川を渡るための渡し舟に乗らねばならず、地図によると渡し舟が出るのは約2時間おきとなっている。
そこで私達は無難な中村経由の道をとることにした。やがて中村市に入りその後雄大な四万十川に出て渡川大橋を渡り川の右岸沿いに歩く。中村市の市街で、またS女さんと一諸になり暫く同行したが、途中で別れ先へ行ってもらった。暫く行くと「良心市」があり、トマトが4ケ入りで百円と書いてある。早速百円玉を銭箱に入れ、ドライブインの外にある休憩所でパクついたが実に美味しかった。都会のスーパーで売っているトマトは、形や大きさが揃っていて、見た目は美しいが水臭くて昔のような甘味が全く無いが、この良心市のトマトは形も大きさも不揃いであるが、子供の頃食べた、あの甘い味を思いおこさす素晴らしいものだった。
其処で東京から来たという70歳位の男性お遍路に出会ったが、大きなリュックを持っており話を聞くと、その人は仕事の都合で35番清滝寺まで打って一度東京に帰り、また出直してきて36番青龍寺から続きを打っていて、時々野宿しているそうである。2時25分、前日予約していた安宿(あんじゅく)旅館に到着した。喉がカラカラなので例の如くカキ氷を口に入れたが、その値段は百円だ。道中で食べたトマトも百円だったがとにかく安い。
この宿のご主人は若くて大層話好きでまた歩き遍路がよく泊るから話題が豊富で、遍路に関する諸々の話を聞いた。夕食は家庭料理で内容も豊富であった。ここでも横山さんと一諸になったが、彼は既に足摺岬の金剛福寺を打って折り返し次の第39番延光寺(えんこうじ)に向かう途中だった。

(本日の参拝した札所と歩行距離)
水鏡荘………32.5キロ………安宿旅館
歩行距離合計32.5キロ

緑のトンネルと西瓜のお接待(19日目)
平成7年7月25日(火)晴れ
4時10分安宿旅館を出る。7時頃「以布利」(イブリ)という村落の遍路道わきにある民家の横を通ったところ、呼び止められ「お遍路さん、西瓜食べていかれ。今朝とったばかりだよ」と軒先まで案内された。考えてみると今年は、まだ西瓜にありついてない。更に7時とはいえ朝からカンカン照りの海岸を既に12〜3`歩いて喉がカラカラだ。お言葉に甘えてお接待を受ける。その甘いこと甘いこと、都会のスーパーの西瓜とは比較にならない。
お礼を云って出発し暫く行くとまたまた呼び止められ「お遍路さん、休んでお茶でも飲んでいきなはれ」という。西瓜をいただいて1時間程であり、前に進むため一度はお断りしたが、妻が「おとうさん、折角の好意だからお受けしましょうよ」「そうだな、お言葉にあまえようか」ここでの接待も西瓜で、再び舌鼓を打った。暫しの休憩のあと、海岸線に沿って進み郵便局の前に来た時、手持ちの現金が希薄になっていることに気付き立ち寄った。郵便局は田舎でも冷房が入っていて、夏の歩き遍路にとって一服するのに好都合で、まして妻は道中トイレに困ることが多く、大いに利用させてもらうことにしている。
この郵便局は女性一人が居るのみで、私達以外には客もなく閑散としていた。妻がトイレを借りて出てくると「お遍路さん、西瓜召し上がりませんか」えっ!と声が出そうになった。「嬉しいですね。今日は西瓜いただくのは此れで3度目ですが、喉が渇いているので何度頂いても有難いですね」昨日までは西瓜のお接待は全く無かった事を思うと、偶然とはいえ今更ながら、その人情の熱さに感激し涙したものである。
これも大師の思し召しではなかろうか。郵便局を出て5キロ程進んで、また喉が渇いた頃、ふと見ると道端に例の無人の良心市があり、ケースの中に百円と書かれたトコロ天が入っている。早速買い求める。修行の道場と言われる高知県は、至るところにこのような良心市があり実に有難かった。住民が純真で素朴なためだろう。大阪だったら盗まれることが多いだろう。十善戒の一つである不さと不偸盗の言葉を思い出した。
足摺岬の手前約5キロ付近までくると、数日前まで時々同行したS女さんにバッタリ出会った。彼女はすでに金剛福寺を打って次の第39番延光寺に向かうため折り返しの途中で、足に出来た豆がつぶれ引きずっており、悲壮な顔をしていたので、無理せずに休みをとりゆっくり行くよう進言して別れたが、彼女と一緒になったのはこれが最後で、その後は全く出会わなかった。やがて道の両側から樹が伸び、まるで樹木のトンネルのようになっている日陰に入った。このトンネルは延々と続き暑い夏の日差しを遮っていて、それまでの猛暑の中の歩きと違い、爽やかで快適な歩行となった。12時30分頃足摺岬に到着しね早速金剛福寺を打って寺の経営する「金剛福寺ユースホステル」に宿をとる。
ここは前々日の23日より開いたばかりで、それまでは夏のこととて客が殆ど無いため休んでいたたが、学校が休みに入ると若者の客が増えるので開いたそうだ。時間が早いので宿にリュックをおいて岬の方へ散歩に出て、突端にある灯台をバックに写真撮影。海の青さは真に見事で遥か水平線をながめつつ、大きく息を吸い込んで至福の時間を過ごした。
足摺岬周辺は観光旅館や民宿がたくさんあり、夏休みに入ったためか子供連れの観光客で賑っていたが、遍路は私達の他は全く無く、土産物屋の勇ましい呼び込みの声が響いていた。
宿に戻り入浴後夕食の膳につくと、東京から車できた2歳位の子供を連れた若夫婦と、夏休みを利用して旅行中の大学生と都合3組が一諸になった。大学生は歩いたりバスや電車に乗ったりの風来坊のような旅を楽しんでいるとのこと、我々の青春時代と比べて全く違い何と平和な世の中かと思うと共に、最近の荒廃した世相に思いを致すのであった。
(本日の参拝した札所と歩行距離)
安宿旅館………25.6キロ………金剛福寺(足摺岬)
歩行距離合計25.6キロ

竜串の電気クラゲ(20日目)
平成7年7月26日(水)晴れ
4時25分ユースホステルを出発。日の出は5時20分の筈だが20分程すると東の空が白み始める。
土佐清水市の松尾地区を過ぎ龍宮神社入口付近でトイレ休憩をとっていると近くの釣具用品店の主人が出てきて「コーヒーでもお接待しましょうか」と声がかかった。缶コーヒーを頂いた後、その人から亡父が金剛福寺の檀家総代をしていたこと、88ケ寺の各寺は遍路シーズンになると毎日数万円から数十万円の収入があるが、寺によって相当な差があること及び亡父は何回も四国お遍路をした事等……の話を長々と聞くことになった。土佐清水市の市街地に入った頃、80歳位のおばあさんに呼び止められた。
「どこからお出でですか?」「大阪から来ました」「この暑い中、歩いてお四国参りですか」「そうです。1番からやっと此処まで来ました。一応88番まで行く予定です」「それは大変だよ。私も何回も四国参りをしたが全部車でだよ。気をつけて行きさっしゃい。お接待しましょう」百円のお接待を受けた。
金剛福寺から次の39番延光寺へ行くには五つ程のコースがあるが、通常は、もと来た道を室津まで打ち戻り、下の加江、三原経由で行くのが最も近いようである。しかし、私は遍路に出る前に地図によって竜串という景勝地があることを知って、遠回りしてでも是非立ち寄ってみたいと思っていた。遍路は大師を偲ぶ修行の旅であるならば、観光地へ寄ることは少し気がとがめるが、難行ばかりでなく楽しむことも又旅の一面ではなかろうか、とか勝手な理屈をつけて今日は竜串へ行く道をとった。
10時頃、前方から「スウー」とタクシーが横付けになった。呼びもしないのに何故タクシーが? まさかタクシーのお接待ではあるまいと思っていると「お遍路さん、あとで写真を撮らせてくれませんか。私は今日の仕事が終わったので今からこの車を会社へ置いてきて、自分の車で戻って来ますのでよろしくお願いします」と云って走り去って行った。
暫くして先のタクシー運転手が戻り早速近くの「大聖不動明王」の旗の立っている社で写真のモデルになる。続いてこの運転手から「お遍路さん、今晩は何処へ泊られますか。できたら竜串を観光したらよい。景色が美しいですよ」「その予定です。今日は『民宿はまゆう』に泊ります」「はまゆうなら知っている。私は明日は仕事が休みですので写真を撮らせて下さい。私の家は直ぐ近くですから寄って下さい」ついに自宅に案内された。部屋の鴨居の上には歩き遍路を撮った額入りの写真が沢山掲げられている。相当なマニアのようである。
やがて民宿はまゆうに到着。リュックを預けて竜串観光に出る。ここは風や波の浸食をうけた岩がいたるところで縞模様や網目模様わつくり、その景観は見事だ。更に竜串桟橋から観光船に15分ばかり乗り「見残し」という景勝地を緒と訪れ、屏風岩の間の探勝路や隆起台地の奇景を楽しんだ。この「見残し」という名称は弘法大師もこの素晴らしい景色を見残したという謂れからついた地名と聞いた。宿に戻ったがまだ時間も早かったので、海水浴をすることにして直ぐ近くの浜辺へ出た。「へんろみち」は険しい山道も多いが、修行の道場といわれる高知県は比較的海岸線が多いので、横に海を眺めながら照り返しのきついコンクリート道を歩いていると冷たい海水を浴びたくなり、何回か妻に「海へはいろうか」と云ってきた。今日はその念願がかなってやっと海水浴ができるのである。最初は数十人の海水浴客の近くへ入って行ったが、空いた所へ移動した途端に「ピリピリ」と電流のようなものが走ったと思うとたちまち左腕が「みみずばれ」に腫上がったので直ぐに海からあがったが、どうやら電気クラゲに刺されたようだ。
早速宿に戻り水虫の手当ての為に持参した華陀膏を塗ったが「みみずばれ」は一週間位かかってやっとおさまった。遍路中に横道にそれ観光なんかをしたため「バチ」が当たったのだろうか。しかし今日は半日、眼の保養をして明日への英気となったと思う事にした。
いよいよ明日は土佐の国最後の札所第39番延光寺だ。四国八十八ケ所のうち土佐(高知県)にある札所は16ケ所と最も少ないが、歩き遍路の道はは約408キロと最も長い。1番札所を出発してから今日で20日。距離から云えば全行程のの半分をを越したようだ。ここまで炎天下を歩けたことに感謝して、さあ明日もお大師さんと一緒に歩こう。
(注)四国遍路のことを四国の人々は別の呼び名で「お四国参り」とも云い、遍路する人を「お四国さん」と呼んでいる。
(本日の参拝した札所と歩行距離)
金剛福寺………26.3キロ………民宿はまゆう
歩行距離合計26.3キロ


短気なお遍路 忘れた地図(21日目)
平成7年7月27日(木)晴れ
4時30分真っ暗な中宿を出る。昨日のタクシーの運転手が表で待っているかと思ったが、見あたらなかった。
しかし30分ばかり過ぎた頃、うしろから車で追っかけてきて「これからもう一度家へ帰り友達を連れてきますから、あとで写真撮らせてください」と云って引き返して行った。20分程経った頃カメラ友達を連れてきた。「先に行って写真に好い場所を探して待っています」と云う。間もなく下川口トンネルを通り抜けたところの信号で右折し、出合方面に向かって進む。相手は車でありこちらは徒歩だからスピードが全然違う。車が5分ほど走ればこちらは1時間かかる。あまり待たさないないようにとドンドン歩く。
車のお接待の誘いが無いのは恐らく歩き遍路に車をすすめても、無駄だろうと思っているのだろうか。1時間あまり進んだ頃、やっと車が見えた。追いつくと「お遍路さんこちらの道を歩いて下さい」と注文が出た。見ると其処は農道で両側は「田んぼ」である。バックに建造物がなく、道路もコンクリートで舗装されておらず絶好の背景だ。2〜3枚撮ったあと車は更に先へ行った。数キロ進むとまた待っている。さきと同様に農道へ入って行くと、たまたま子供が二人ジョギングをしていたが、運転手はその子供を呼び止め何か頼んでいるようだ。どうやら子供のジョギングをバックに入れて、お遍路を撮ろうと云う事らしい。
運転手の合図で子供達は走りだした丁度好い被写体になったと思われる頃シャッターはきられた。テレビ撮影等でよく「ヤラセ」が問題になることがあるが、私達の「ヤラセ写真」も云わなければ偶然の背景と思うかも知れないだろう。10時半頃やっと出合橋に着きまたまた撮影となったが、その時偶然犬が出てきて私達について歩き出した。それこそ絶好の背景となったところでシャッターはきられた。
ここからは三原へ行く道と宿毛市へ行く道に分かれており、運転手さんは「三原への道の方が、やや近いかも知れないが、道が険しく迷いやすいから、左の宿毛への道をとるほうが安全だよ」とすすめられたので、その教えに従うことにして、ここで別れた。
今日は相手は車でこちらは歩きのため、全く休憩なしで約6時間歩きづめで、朝から何も食べておらず腹の虫が「クウクウー」と泣いていたので宿でつくってもらった朝食用のおにぎりを食べようと思ったが、先程から犬が付いて来て離れようとしない。犬もお腹が空いていて何か貰えないかと必死のようだ。時々犬の姿が見えなくなることがあるが、道草をしていたのか直ぐにまた追っかけてくる。首輪はなく恐らく捨て犬であろう。おにぎりの一つくらいやってもよいのだが、そうすると余計に離れないだろうと思い、こちらも意地になって犬と人間の根競べだと思いどんどん進むがやはり駄目だ。
あとで聞いたがこの山には飼い犬がよく捨てられるそうだ。それなりの事情があってすてるのであろうが、あまりにも勝手すぎないかと思う。あきらめて道端で休んでいると子供を乗せた軽自動車が止まり「お遍路さん車に乗りませんか」と声がかかった。妻は「お父さん、犬が離れるところまででよいからお接待をうけようよ」という。成る程と思い「済みません。食事をしようと思うのですが、この犬がついて離れないのですよ。離れる所までお言葉にあまえさせていただけますか」初めての車のお接待を受けた。
車の中で思ったのだが、どうせ車で行ってしまうのだから、おにぎりの一つくらい、この犬にやれば良かったと後悔したがあとの祭りだ。約5キロばかり乗せて頂いた頃丁度公民館の建物があり、その軒を借りて食事をすることにして御礼を云って車を降りる。時計の針は既に1時前を指してており、おにぎりを食べてやっと息を吹き返した。
その後まもなく小筑紫というところで国道321号と合流し、宿毛の市街地へ入った。途中妻が尿意を訴えたので大きな雑貨店に入り靴下を買い、ついでにトイレをお借りする。ところが妻はトイレからなかなか出てこない。やっと出てきたが、それからの歩行は急にスピードをあげ、私は先に「ドンドン」進んだが、妻は「フウフウー」といいながら数十メートルあいてついてきた。妻のトイレのために時間がたったのが気に障ったのである。私は生まれながら短気で、年をとって少しは直ってきたはずであるが、時々本性をだしてしまう悪癖がある。これを直さなければと心の中では思っているがなかなか直らない。四国遍路に行けば少しは良くなるかと思ったがやはり駄目だ。お大師さんもあきれておられるのではなかろうか。
やがて予約しておいた米屋旅館についたが、次の39番延光寺へは6.6キロあり、そこから40番へは同じ道をこの宿まで打ち戻らなければならない。今日は既に朝4時30分から車のお接待を差し引いても35キロ程歩いた。これから更に延光寺を往復すれば48キロになる。妻も相当疲れているようだ。「今日は此処までにして延光寺は明日打つ事にしょうか?」「大丈夫。行きましょう」と云う。そこで取り敢えず喉がカラカラだったので冷たいお茶を何杯も何杯もいただき、リュックを宿に預けて延光寺に向かった。ダラダラとした国道56号の坂道を上がって行くが、ついに先程私がスピードアップした影響が出たのか妻が疲労を訴えた。休憩を何度も何度もとりながら進む。今更ながら自分の我がままを後悔する羽目となったが仕方ない。
やっとのことで延光寺を打ち終え、もと来た道を1キロばかり打ち戻り国道へ出たところで、地図(四国遍路ひとり歩き同行二人の本)を忘れたことに気がついた。妻をそこに待たせて一人で寺まで急ぎ戻り探すも見当たらず、あきらめて戻り妻に伝えると「私も行くからもう一度探しましょう」この地図は歩き遍路にとって真に重宝なもので、毎日首っ引きで来た。これを新しく手に入れるにも何処で売っているか解らない。「へんろみち」の標識も非常に頼りになるがこの地図(本)には食堂や宿、公衆便所、ガソリンスタンド、標高、札所間の距離、宿と札所の距離等など…が表示してある。再度妻とともに戻り境内の隅々まで探したが発見できず、あきらめて元の道を戻りながら「困ったなあ、明日からどうしょう」と言っていると、後から「ブゥーブゥー」と自動車のクラクションの音がした。振り返ると自動車の中から「有りました、有りましたよ」と大きな声が聞こえてきた。見ると車の窓から手を出して本を振っている。まさしくあのへんろ地図の本だ。
この人は私達が延光寺の境内で探している時、一緒になって探してくれた人だ。「何処に有りました?」「灯篭の上にのっていましたよ」そう言えば手水鉢で口をすすぎ手を洗うとき、灯篭の上にのせたことを想い出した。その灯篭は私の身長よりやや高かったように思う。少し上を見れば見つかっただろうが、目線より下ばかり探していたからだろう。感謝の礼を言って別れたが涙がこぼれる程嬉しかった。このあと国道に出て緩やかな下り坂を戻ったが宿に着いた時は既に6時50分で日も沈んであたりは薄暗くなっていた。
(本日の参拝した札所と歩行距離)
民宿はまゆう……39.0キロ(うち車にて約4キロ)……米屋旅館……6.6キロ……39番延光寺……6.6キロ……米屋旅館
歩行距離合計48.2キロ

宇和の海を眼下に見て(22日目)
平成7年7月28日(金)晴れ
4時5分米屋旅館を出る。間もなく松尾峠への道と国道との分れに差しかかった。距離はあまり変わらないようであり、松尾峠は標高332メートルとあるので国道56号を進み宿毛トンネルを抜け、6時頃篠川橋の手前で朝の弁当を食べる。この篠川橋を渡るといよいよ愛媛県で伊予の国へ入る。しばらく歩いた頃、すれ違った車が急に止まり助手席より50歳くらいの女性がわざわざ降りてきて、私と妻にそれぞれ500円づつのお接待を頂いた。
走っている車を止めてまでお接待とは……去って行く車を見送りながら南無大師遍照金剛と合掌する。一本松トンネルを通り一本松役場から国道56号に別れを告げ右に入り住宅や樹の日影のある人に優しい遍路道を進んだ。城辺町を通り過ぎ宇和郡御荘町(ミショウチョウ)に入ると間もなく第40番観自在寺である。伊予路に26ケ寺ある「菩提の道場」の最初の札所である。十数段の石段を上り仁王門をくぐると奥の方にコンクリート造りの本堂が見える。巡拝を終え次に進む。
この付近は住宅や商店が軒を連ね旅館も沢山有り既に30キロ歩いているので宿をとっても良いと思い妻に相談するが「まだ早いから、もう少し先へ行きましょう」と言う。時計を見ると1時を少し過ぎたばかりだ。しかし宿を出てから9時間経っている。妻の言葉を信用し、へんろ地図を見て更に9キロ先の「民宿ビーチ」へ予約の電話を入れた。暫くすると八百坂峠への坂道にかかる。汗がたらたらと頬を伝い白衣はびしょびしょだ。やっと峠の頂上に着き其処から2〜3キロ進むと急に視界が開け、眼下に宇和海が見えた。
地図によると此処は足摺宇和国立公園とある。足摺岬から見た太平洋は荒海が打ち寄せ男性的だったが、ここ宇和の海は女性的な静かな海で、下を見下ろすと海水浴客が泳いでいるのが見え、その直ぐ傍に民宿らしい建物が2〜3軒見える。
今夜の宿がその民宿だとすれば道路から50〜60メートルほど急坂を下らなければならない。妻が「えっ、あそこまで降りなければいけないの?明日又上がるのが大変じゃないの」と叫ぶ。しかし道路の先に食堂が見えよく見ると「民宿ビーチ」とある。「ああ、此処だ。良かった」へんろ地図によると、この付近には4軒の宿が記載されていた。どうやら他の3軒は眼下の海辺にあるようだ。リユックをおろす。この宿は崖っぷちに建っており、道路側は食堂になっていて階下に浴場や部屋がある。裏から見れば食堂は2階になる。入浴を済ませ休んでいると「どうぞ食べてください」と西瓜を出されたが、風呂上りのこととて喉元にしみとおった。夕食は海辺であり海産物が多く、緋扇貝(ヒオウギガイ)は赤くて大きなとても珍しい貝で美味しかった。夕食後、5人の釣客が泊りに来たが、この客が隣の部屋で夜遅くまで大きな声で騒いでおり睡眠の妨げとなった。
(本日の参拝した札所と歩行距離)
米屋旅館……23.2キロ……40番・観自在寺……9.0キロ……民宿ビーチ
歩行距離合計32.2キロ

(23日目)最長の松尾トンネル
平成7年7月29日(土)晴れ
4時5分民宿ビーチを出発。2キロばかり行くと「柏」のバス停があり、ここからは地図によると国道と山越えのへんろみちに分かれており距離はへんろみちの方が短いが、標高450メートルの柏坂峠を越えねばならないようだ。少し回り道だが国道の方を行く。今日もカンカン照りでコンクリートの照り返しがきつい。
10時頃、北宇和郡津島町の街並みに入り、道端の店で氷の飲み物を買う。これは氷を細かく砕いて甘味をつけた飲み物で、歩きながら少しづつ口に入れると喉の渇きが癒され、氷が溶けるまで口の中にあり、割合に長い時間あるので重宝だ。子供に人気があるそうだ。やがて緩やかな上り坂にかかったが、その先は国道56号線と旧国道(山上線)に分かれるようになっている。旧国道は地図によると「1.7キロ余分に歩くが、清閑で自然豊かである」と書いてあるが細いへんろみちの山越えのようであり、妻は現国道を行こうと言う。妻の希望を入れて進むと、間もなく長い長い松尾トンネルにに入った。このトンネルは全長1710メートルあり、今まで何回もトンネルを通ったが最長だ。
トンネルの中は一定間隔でライトがついているが薄暗く、歩道の幅は50センチほどしかなく、すぐ横を車が「ブーンブーン」とうなりをあげて通る。コンクリートの壁に車のエンジンと車輪の摩擦音反響してものすごい音だ。しかも車は途切れる事が殆どない。乗用車ならまだよいが、トラックが走る時は風圧で巻き込まれるかと思う程で、菅笠が吹き飛ばされそうだ。そのうえ車の排気ガスが「モウモウ」と立ち込めるので、右手で菅笠を押さえ左手でタオルを持って口を覆って進む。峠越えの「へんろみち」を行けばよかったかな?20分程経ってやっとトンネルの出口の明かりが見えた。
トンネルを出たところで昼食をとり、その後緩やかな坂道を下ると、いよいよ宇和島の市街地に入った。途中スーパーマーケットで涼を入れ、市の中心にある吉重旅館に投宿する。
(本日の参拝した札所と歩行距離)
民宿ビーチ……22キロ……1710メートル……9.0キロ……吉重旅館
歩行距離合計33キロ

(24日目)身軽に駆け下りた歯長峠
平成7年7月30日(日)晴れ
前日と同じ4時5分宿を出る。前の晩に携帯した目覚まし時計を3時40分に合わせ、20分余りで準備して宿の主人もまだ寝ている間に静かに出る。
まるで夜逃げか泥棒のようだ。10.3キロ進み6時40分3間町にある第41番龍光寺(l(リュウコウジ)に着いた。この寺は小高い山の中腹にあり、山門は鳥居になっている。書物によると神仏の本尊が本堂内に同居する寺で、本尊の十一面観音菩薩と稲荷尊がともに鎮座し、地元の人達からは「三間のお稲荷さん」として信仰を集めていると言う事である。次の第42番佛木寺(ブツモクジ)は三間町にあり、距離は2.8キロと極めて近い途中道端の農家の前で前夜買った朝食のパンを頬張る。田園の中を進み佛木寺に着いた。二層の立派な山門をくぐり石段を上がると、珍しい茅葺き屋根の鐘楼堂がある。
この寺の本尊は弘法大師の作と伝えられる大日如来で地元の人たちからは「お大日さん」と呼ばれているそうだ。参拝の後、山門を出たところにバス停の小屋があり、そこでまた一人の歩き遍路に出会った。60歳少し前かと思われ、休みを利用して区切り打ちをしているそうだ。最近は50歳台のサラリーマンが休暇を利用して、このように数日間または一週間ほどの区切り打ちをしている人が大変増えたそうで、これも現代の物資の豊富さに慣れた生活を反省し、人生を振り返って心の安らぎを求める人々が多くなった為だろうか。
佛木寺から次の43番明石寺(メイセキジ)までは10.8キロあり途中標高500メートル程の歯長トンネルを越えなければならない。だらだらとした坂道を上って行くと後ろから来た自動車がとまり、40半ば頃かと思われる女性がわざわざ降りてきて「お遍路さん、お乗りになりませんか。私も「あげいしさん」の近くまで行きますから」と声がかかった。明石寺は本によると地元の人たちからは「あげいしさん」の名で親しまれているとある。時間はまだ9時過ぎで朝から15キロほどしか歩いていないので(毎日30キロ前後歩くので15キロは少ない)私はそれほど疲れていないが、妻は「お父さん。折角だからお接待をうけましょうよ」と言う。連日の長時間歩行と猛暑により妻は相当疲れている筈である。「じゃーお前だけ乗せてもらいなさい。済みませんが私はまだ歩きたいので、よろしくお願いします。」と言ってついでにリュックもお接待に預かることにし、明石寺で落ち合うことにして、妻に「ここから明石寺までは9キロ程あり、峠を越えねばならないので3時間近くかかるだろうと言って別れた。背中の荷物が無くなり身軽になったので、それからの歩行は急に速くなり、どんどん坂道を上がっていく。
歯長峠のトンネルを出ると車道と山の「へんろみち」に分かれている。地図を見ると車道は大分迂回しているので、へんろみちをとることにして左に入り、急な下り坂を行く足元に気をつけないと滑りそうになる。20分程で大きな車道に出た。そこから札所までは約6キロだ。平坦な車道を駆け足ぎみで急いで歩く。やっとのことで明石寺に着き、だらだらとした参道を上り詰め、石段を更にあがると広々とした境内に出た。周辺を見渡したが妻はいない。
おかしいなあ?と思い石段下の食堂をさがしても見当たらない。もう一度境内をさがすべく石段を上がり始めると、上から「お父さん、此処よ。早かったねえ。まだまだ来ないと思ったから少しねていたのよ」と声が飛んできた。成る程、妻と別れてからは半分近くは走り気味に急いだため予想より早く、3時間と思われるところを、2時間余りで着いたためか。明石寺は標高280メートルの地にあり天台宗の寺である。
参拝の後、寺の裏から南へ下る参道を進むと、沢山の人が道の掃除や草刈をしておられた。近くの人達のボランティアと思われお礼を言いながら降りて行った。坂を下ったところで古い町に出た。ふと前を見ると「文化の里休憩所」と大きな文字で書いた標識が目に入った。此処は宇和文化資料館で宇和の町の文化や歴史を紹介した種々の資料が展示してあった。此処では手作りのアイスクリームのお接待を受けたが、そのとろけるような舌ざわりは素晴らしかった。
間もなく予約しておいた中村屋旅館リュックをおろした。宿の主人は大層話し好きで、すでにアルコールが入っている様子でもあり、昔の遍路に関する話や自分の家族子供のことなど延々と話がつづいた。
(本日の参拝した札所と歩行距離)
吉重旅館……10.3キロ……41番・龍光寺…2.8キロ…42番・佛木寺……10.8キロ……43番・明石寺……1.2キロ……中村屋旅館
歩行距離合計25.1キロ

(25日目)大師の眠る「十夜ケ橋」
平成7年7月31日(月)晴れ
昨夜は蚊に悩まされ熟睡できなかったので、早くから目が覚め3時30分に宿を出る。
このところ4時前後に出発することが多いが、足も身体もすっかりそれに慣れてしまったようである。国道56号沿いの旧道を北進し、1170メートルの鳥坂トンネルを車の排気ガスに悩まされながら進む。ほぼ1週間あまり毎日毎日のうだるような暑さが続いている。今日も例の如くインスタントのパック入りかき氷をスーパーで購入し、ちびりちびりとすこしづつ口に入れ食べながら歩く。かき氷がなくなると、睡魔がやってきて時々足がふらつく。危なっかしいものだ。
12時過ぎ大洲市の市街地を抜け、内子に向かう途中にある十夜ケ橋(トヤガバシ)永徳寺という番外霊場に着いた。案内書によると「弘法大師がこの地方を通られた際に、一夜の宿を求めてまわったが宿を貸してくれるところ無く、寒い中、橋の下で野宿したが、あまりの寒さに一夜が十夜にもまさる思いをされ
「行きなやむ浮世の人を渡さずば一夜も十夜の橋と尾も思ほゆ」と詠まれたそうだ。
そのため、いつからか、杖の音で橋の下に休まれる大師の睡眠を妨げてはならないと言う心遣いから遍路は「橋の上では杖をつかない」ならわしとするようになったとある。橋の上で杖をついてはいけないということは、私も聞いていたたが、1番霊場を出てから今日まで何度も何度も橋を渡ったが、ついうっかりして杖をついたことが再三再四あり、その都度妻に「お父さん、橋の上ですよ」と注意されて「はっ」と気付く事が多かった。寺の前にある橋を渡って下に下りると橋の下はコンクリートの台地になっていて、そこに弘法大師が横に寝た石像が二つあり、そのうちの一つには布団がかぶせられ大師が眠っていてローソクや線香が供えられていた。この布団を病人に着せると病気が治るといわれ、近くの人達が持ち帰り、新しい代わりの布団をかぶせるそうだ。
大師信仰の精神は四国の地には、いたるところにこの様にして受け継がれていると思うと今更ながら大師の偉大さを感ぜずにはいられない。十夜ケ橋を過ぎて間もなく近くの郵便局に立ち寄り5万円を引き出したが、傍にいた男性が「歩いてまわっているのですか?私も車で数回お参りしたが歩いてとは、きっとご利益があるでしょう。頑張って下さっしゃい」と500円のお接待を受けた。記録を調べて見ると、今日までにお金のお接待は9回、食べ物と飲み物は10回、善根宿が1回、車のお接待が2回、宿賃の値引き(歩き遍路に限る)数回など……今更ながら感嘆するばかりである。だらだらと緩やかな上りの国道56号を行くと、やがて古い家並みの内子町に入り宿泊予定の竜王荘温泉に着いた。
ここは老人福祉センターの施設で、近くから来たと思われる沢山の老人が温泉につかっていたが、一般の客も利用できるようで、1泊2食5.500円と料金も非常に安かった。43番明石寺から44番大宝寺までは70.2キロあり88ケ所の寺間の距離としては3番目に長い距離で明日はその大宝寺へ向かうことになる。
(本日の参拝した札所と歩行距離)
中村屋旅館……23.3キロ……番外霊場十夜ケ橋永徳寺……8.3キロ……竜王荘温泉
歩行距離合計31.6キロ

(26日目)コシヒカリの日の丸弁当
平成7年8月1日(火)晴れ
ついに月が変わり遍路も26日目となった。4時20分に龍王荘を出て間もなく、道を間違えたような気がしたので付近で尋ねようとしたが、夜が明けたばかりで人の気配は全く無く、あたりはまだ薄暗い。
やっとのことで車の牛乳配達をみつけて「すみませんが大宝寺へ行くのはこの道でよいのでしょうか?」「この道は松山へ行く道です。『クマ』へ行くのですね」『クマ』とは熊のことかと一瞬思ったが、いやいや違うだろうと、いぶかりながら「いいえ、44番大宝寺へ行く道です」と言ったが地図を見て直ぐに大宝寺は久万町にあり、この地名は「クマ」と読むことがわかったので「ああ、大宝寺は久万町にあるのですね。そうです。」と答えると「それじゃ、道が違う。少し前に橋があったでしょう。その橋を渡りなさい」1キロ程後戻りしたところに内子橋があり、その橋を渡って東に進む。やがて大瀬付近で妻が尿意をもよおしたので、近くにあったガソリンスタンドに寄りトイレをお借りして出てくると60歳位の女性が寄ってきて「お遍路さん、あんた達の姿が見えたので待っていたのです。今とったばかりです。」とミニトマトのお接待を受けた。その時朝食をまだとっていなかったので、ついでにお願いして、その女性の軒先をお借りして食事をとったが、更に「これは今朝炊いたばかりのご飯です。少し多く炊いたので、どうぞ持っていって下さい。コシヒカリですよ」有り難くプラスチック容器入りのご飯を押し頂いて前進して間もなく、地図に千人宿記念大師堂と書かれた建物の横を通った。
此処も素泊まりの無料遍路宿だ。ここをお守りしておられる山本さん宅は、丁度建て替えの工事中であったが、その山本さんから缶入りジュースのお接待を受けた。一服入れて前進すると間もなく妻が腰痛を訴えたので、連日の歩きによる疲労が原因だろうと思ったが、妻は昨夜の温泉に長い間つかったのも一つの原因だと思うと言う。今朝起きた時体操をしていたが、腰痛を治すためにしていたらしい。「それじゃ、次のバス停で時間表を見て待ち時間が少なければ、お前だけバスにのったら」といったものの、恐らくこの辺のバスは1日4〜5本しかないだろう。
するとすうーっと車が横に止まり「お接待しましょう(自動車にお乗りなさい)。久万まで私も行きますから」と女性からこえがかかった。「お父さん、折角のお接待だから乗せていただきましょう」と言う。一昨日の歯長峠では妻だけが乗せてもらい、私は歩きにこだわった。しかし地図によるとこの先には適当な所に宿が無い。また都築さん宅で「車のお接待があれば乗せてもらって下さい。」と教えられた事を思い出し、ご好意に甘えることにした。妻は「これもお大師さんのお引き合わせでしょう。有り難いですね。本当に不思議ですね。」と言うが私は信心が足りないのか、たまたま妻の腰痛と車のお接待が一致しただけの事だとしか思えなかった。
この女性は娘が結婚して久万町の大宝町の大宝寺の近くにいるので其処へこれから行くのだと言う。40分近くも乗せてもらっただろうか。やがて久万町の娘さんの家の前に止まり、家に入ってジュースや蜜柑を持って出てこられ「どうぞ、召し上がって下さい」とお接待を受けた後、一緒に大宝寺にお参りしてお別れした。この札所は杉や檜の大木が茂り、昼でも薄暗く霊場らしい雰囲気が溢れていた。住職の奥さんに第45番札所岩屋寺(イワヤジ)への「へんろみち」をお尋ねして寺を出る。
急坂の鬱蒼とした「へんろみち」を「ハアーハアー」と息を吐きながら登っていく。12時を過ぎていて昼食わとっていないが、山中のこととて食堂などある筈がない。ふと今朝ガソリンスタンドの横でいただいたコシヒカリを思い出し、近くの木造のベンチに腰をおろし弁当を開いた。梅干の入った日の丸弁当で、ペコペコにお腹が空いていたことでもあり他のどんなご馳走よりも美味しく感じられた。食事のあと、しばらく進むと広い舗装道に出たが、2キロ余りで又狭い山中の「へんろみち」の連続である。やっとのことで3時頃、予約しておいた国民宿舎古岩屋荘に着いた。
岩屋寺はここから3キロ先にあり受付にリュックを預けに行く事にしたがこの国民宿舎の送迎バスで「岩屋寺まで送ってあげましょう。帰りに歩いて帰ったらよいでしょう」と言われた。川沿いにバスは走り、5分あまりで岩屋寺の下の駐車場に着いた。山門をくぐり石段と坂道のつづく参道を息を切らしながら20分ほど上がると、やがて断崖絶壁にへばりつくように建っている本堂や大師堂が現れた。何とも表現し難い荘厳な景観に驚嘆の目を奪われたこの寺は、かっては44番札所大宝寺の奥の院であったと聞いた。大師堂から更に200メートルほど上がったところには、幅1メートルほどの岩の割れ目を鎖と梯子を使ってよじ登る難所があったが、といも通常の人間では登れるような所には思えなかった。
古岩屋荘への帰りは車で来た道に沿うて流れる川の反対側の細い「へんろみち」を歩いて1時間余りで戻った。入浴後ロビーで休んでいると、旅行客らしい50歳台ぐらいの女性と話がはずみ、私が歩き遍路で1番から歩いている話をすると、驚嘆の眼差しで「いったい、どんな足をしているの、ちょっと触らせて」と言って太ももを撫でられたのには驚いた。今日は55キロ程進んだようだが、その半分は車のお接待によるもので、そのため、ほぼ1日分早くなったと思う。さあ明日はいよいよ松山市へ入ることになるが、思えばよくも此処まで来たものだ。参拝した札所の数も半分を越した。私よりも妻がよく付いてきたものだ。
(本日の参拝した札所と歩行距離)
龍王荘温泉……41.7キロ……44番・大宝寺……9.1キロ……45番・岩屋寺……3キロ……国民宿舎古岩屋
歩行距離合計53.8キロ(但し、うち27キロほどは車のお接待を受けた)

(27日目)三坂峠から松山市へ
平成7年8月2日(水)晴れ
連日晴れの日が続く。星が「キラキラ」と輝いている。こんなきれいな星空は都会では全くみることは不可能だ。子供の頃は大阪でも北斗七星を見ることが出来た。いつから駄目になったか。
昨日参拝した大宝寺の方向に逆戻りして進むが、まだ真っ暗なため昨日の山中の「へんろみち」は避け、少し遠回りだが広い車道を歩く。7時頃までは自動車は殆ど通らなかったが、国道33号に出てからは急に多くなった。海抜710メートルの三坂峠に向かって延々と続く広い坂道を登っていく。今朝は朝食のおにぎりが無いのでお腹がペコペコだ。地図に「へんろ歓迎」とかかれた食堂を目当てに行ったが、見落としたのか閉めていたのか、はっきりしないまま9時30分に峠に着いた。
峠の食堂で簡単な朝食をとった後、長い長い下りの鬱蒼とした山道をどんどん降りていく標高100メートル付近まで下ると民家が見えてきた。暫くして郵便局に入り軍資金の補給をする。ここで局員に「この先にある長珍屋は、歩きお遍路さんは、無料の筈だと聞いていますよ」と教えられた。今日はまだ何処にも宿の予約をしていない。この民宿長珍屋の大きな看板を途中の道で何度も見てきた。間もなくその長珍屋の前にきたが、客の送迎用と思われる専用バスが2台駐車しており、建物も今までの民宿に比べてかなり大きいようだ。時計を見ると2時を指していて少し時間が早いが、玄関で先ず今夜の泊りを依頼してリュックを預かってもらい、すぐ前にある第46番浄瑠璃寺(ジョウルリジ)に向かう。
ここは松山市内にある8ケ所の札所の内、順打ちに回れば最初の寺である。境内に入ると正岡子規の「永き日や 衛門三郎 浄瑠璃寺」の句碑が私達を迎えてくれた。次の八坂寺(ヤサカジ)までは900メートルしかないので、その足で八坂寺を打つことにする。畦道伝いに進むと間もなく着いた。この寺の近くには弘法大師を追い払おうとした衛門三郎が大師の鉄鉢を割ったため、急死した8人の子の墓と云われている八塚古墳がある。打ち戻って長珍屋に投宿する。
(本日の参拝した札所と歩行距離)
国民宿舎古岩屋荘……23.1キロ……46番・浄瑠璃寺……0.9キロ……47番・八坂寺……1キロ……民宿長珍屋
歩行距離合計25.0キロ

(28日目)迷う遍路と走る遍路
平成7年8月3日(木)晴れ
久し振りに長珍屋で朝食をとり宿の支払いわ済ませた。1泊2食で一人分6000円、二人分の12.000円とビール代600円を支払った。
昨日歩き遍路は無料の筈と聞いていたが、その様子は無く値引きも全く無かった。後で考えると歩き遍路であることを告げなかったからかと思ったが、しかし前日浄瑠璃寺へ参る以前にリュックを玄関の受け付けへ預かってもらったし、今朝も早く朝食をとり、リュックを背負っているからわかる筈だ。歩き遍路の特徴はリュックを背負い、通常、足元は長距離歩行に適合する靴を履いている。しかし、そのようなお接待を期待する心を持ってはいけないと云うお大師さんのお教えで、まだまだ修行の心が足りないのであろう。
宿を出たのは6時5分。6時台に出るのは十数日振りである。まず第48番西林寺(サイリンジ)を打ち、つづいて49番浄土寺を打った。時計を見ると9時を少し過ぎたばかりだ。
更に第50番繁多寺(ハンタジ)に向かったが、途中で道を間違えていることに気付き後戻りをして、近くにいたしんせつなおじいさんに寺の近くまで案内してもらい、やっと繁多寺に着いたが浄土寺から繁多寺までは地図によると1.6キロとあり通常ならば20分ぐらいのところを約1時間かかり10時を少し過ぎていた。私は道に迷わないように、出発に際し磁石を用意して常にズダ袋に入れ、時々地図と磁石との首っ引きで遍路を続けてきた。しかし、それでも今日まで何回か道を間違えたが、それは比較的に街の中が多かった。街中でも道案内のへんろ標識があるが、ついうっかりして見落としてしまうことがあった。街では道路が何本も通っているからだろう。かえって山中のへんろ道の方が迷わなかったが、それは山中の分かれ道には必ず「しるべ札」樹の枝から吊り下げられてあったからである。歩き遍路にとっては何よりも心強い味方のような気がしたものである。
次の第51番石手寺(イシテジ)に11時30分到着。この札所は有名な道後温泉のはずれにあり、観光客が多く門前には土産物店が軒を連ね、夏の事とて遍路は2〜3人わ数えるのみであった。シーズンともなれば温泉を訪れた観光客や、団体バスのお遍路さんなどで大変な賑わいとなると聞いた。書物によるとこの寺の入母屋造りの仁王門は国宝で、広々とした境内にある本堂、三重の塔、鐘楼堂、護摩堂は重要文化財として指定されており、また、寺の名は衛門三郎再生の証しとして三郎が臨終のとき大師から授けられた1寸8分の小石を左手に握っていたことに因んでつけられたとある。納経所でご宝印をいただいた後、歩き遍路にだけと言ってタオルを頂いた。その後松山市内を西へ西へととり、温泉街を抜けて第52番太山寺(タイザンジ)へ着いた。仁王門から山門まで長い参道がつづき、本堂、大師堂にお参りをして納経所に引き返したが、この時納経所にはバス団体のお遍路さんが20数名、納経帳を持って並んでいた。時計を見ると既に4時25分。
今日は次の53番まで打って、その2キロ先の民宿に予約をとってあるが、ここから53番までは2.3キロあり、30分はかかる筈だ。納経所の閉門時間の5時までに入るにはぎりぎりである。もし今日中に53番を打てなければ、明日は民宿から引き返さなければならない。団体のうしろに並んだが気が気でない。この団体さんは私達より後に到着し納経(お参り)は未だ終わってない筈である。ご宝印をいただくのは納経が済んだ証明書の意味があるとすれば、順序は逆である。そこで仕方なく団体さんにお断りして納経所に「実は、私は今日中に53番を打って、その先の民宿に泊りの予約をとっていますので、まことに勝手ですが、先にお願い出来ないでしょうか」結果は心よく先に頂くことが出来た。
大阪に帰ってから知り合いに聞いた話によると、春の遍路シーズンには納経所が込み合うので、おへんろさんの団体バスの場合は、バス会社は運転手や添乗員以外の社員も動員して、場合によってはバスの前に乗用車わつけ、バスより先に次の札所に行ってご宝印をもらっておくことがあると云う。納経所を出て53番円明寺(エンメョウジ)に向かう。5時までは30分弱しか無く、今日中に打てるか心配になってきた。競歩と駆け足の繰り返しをしながら、しかも途中からは妻にリュックを預け、身軽になって懸命に走り、納経所に着いたのは5時3分前、滑り込みセーフとなった。この時ばかりは止むを得ず、お参りをあとにして納経所に駆け込んだが、お大師さんは怒っておられないだろうかと心にとがめた。許していただくことにしょう。納経所に入ると住職が待っておられて「あなた方ですね。先程52番から電話があって、歩き遍路がいくからと連絡のあったのは。私はこれから会合があって直ぐ出ていく予定です。」とのこと。
有難いことに太山寺の納経所から連絡があったのだ。納経帖に印をいただいた後、お参りし宿泊予定の民宿い伊予路に向かう。途中、小さな店でれいのごとくかき氷で喉を癒す。宿に着いたのは5時50分になっていた。今日の歩行距離は地図では約28キロであるが49番から50番までの間でみちに迷い、相当遠回りしている為、恐らく30キロは越したものと思われ、しかも52番から53番にかけて殆ど走ったため疲労は極限にきているようだ。この宿の主人と奥さんは非常に感じがよく、行届いた心遣いには、とても感じ入った。また、調理している息子さんは、大阪の有名なホテルで料理の修業をしてきたそうで見た目は勿論、味は格別に素晴らしかった。
(本日の参拝した札所と歩行距離)
民宿長珍屋……5.5キロ……48番・西林寺……3.1キロ……49番・浄土寺……1.6キロ……50番・繁多寺……2.5キロ……51番・石手寺……10.3キロ……52番・太山寺……2.3キロ……53番・円明寺……2.0キロ……民宿伊予路
歩行距離合計27.7キロ(但し49番〜50番へは道に迷い迂回した為約30キロ)

(29日目)落とした掛軸・脱水症状で点滴
平成7年8月4日(金)晴れ
今日も天気は良い。喜ぶべきか?十日あまり晴天続きだ。夕立てでも降らないかなあ・・・・と思う。6時民宿伊予路を出発。今日は宿のご主人が自動車で次の54番延命寺(エンメイジ)まで33キロの道を送ってくださったので、6時40分に着いた。私にとっては3回目の車のお接待である。
国道96号の海岸線を走りながらの伊予路のご主人の話では「この近くの北条市には番外霊場の鎌倉大師堂があり、そこの庵主さんの手束妙絹尼さんのお話によると、最近若い女性が悩み事で相談にくることが多いが、恋人や恋愛に関するものが多々あり、そのような悩みは大した事ではなく、贅沢な悩みで、まだ苦労が足らないからであると言い聞かせて・・・・帰らすそうです」とのこと。この尼さんは以前に何度か歩き遍路をしていて、この霊場に庵主が不在であることを知り、求められて横浜の自宅を処分して此処に移り住んだそうである。現代の物の溢れた豊かな時代こそ、人の心の安らぎを求めて訪れるのであろう。
延命寺を打った後、民家の散在する田舎の道を抜け第55番南光坊(ナンコウボウ)に向かったが、途中で妻に「荷物を持ったろか?」と声を掛けたが、その瞬間、妻は素頓狂な声で「あっ、お軸が無い。さっきのお寺を出るときは確かに肩に掛けたのに?途中で紐がほどけておとしたのかとら?」さあ大変、このお軸は29.500円をはたいて買い、各霊場で墨書とご宝印をいただいてきた。お大師さまの化身とも云える大切なものである。
「大変だ。引き返して探してくるからここで待ってなさい」リュックを妻に預けて、必死になって来た道を走って戻った。出てこなかったらどうしょう5〜6分も走っただろうか、道端に掛軸が落ちているのが見え、胸を撫でおろした。「有った、有った。良かった、良かった」ふたりで喜びを分かち合った。幸い、早朝のことで人通りもなかったためと、落としてから時間も僅かしか過ぎていなかったからだろう。もし見つからなければと思うと思わず背筋が「ぞうっ」したが見つかったのはお大師さんのお陰であろうと思う一方で、私たちの注意や信心のいたらなさを痛感した。
やがて今治市の管理する墓地の間わ通り抜け、市の中心街に入り南光坊に到着した。四国88ケ所のうち「坊」と呼ぶのはただ一つこの寺だけである。参拝した後、善根宿の狩野さんさんへ電話を入れ今夜の宿をお願いした。この加納さんのことを知ったのは27番札所の休憩所に歩き遍路の接待宿の案内の貼紙があったからからで、これをメモしておいた。時間はまだ10時過ぎであり、12キロほど歩いただけであるが、今日はどうも体調がおかしい。
連日の暑さによる疲労と、昨日52番から53番にかけて20分あまり走ったのがひびいているようだ。喉が渇いて仕方がない。そこでJR今治駅近くにある喫茶店に入り、かき氷わガブガブ飲んだが渇きが癒えず、話す言葉も舌が縺れてどうもおかしい。店の女主人に善根宿のことを話すと「ああ、加納さんなら知っていますよ。でもあの家は新築したばかりで、お遍路さんをただで泊めるのかしら。私だったらよう泊めんわ。案内しましょうか」なるほど、それが当たり前だろうなあ・・・・と、半分納得して案内してもらった。
加納さん宅には子供さんが留守番していたので、用件を告げリュックを預かってもらって、すぐにあった産婦人科の医院に飛び込んだ。受付の女性に依頼すると「ここは産婦人科ですよ」「わかっています。何処に医者があるかわからないし、看板が見えたので入ったのです」「それでしたら、このすぐ近くに病院がありますよ」と云って教えてくれた。病院へ入ったのは11時20分。受付は11時30分までとあり午前の診察に間にあった。診療を受け、尿検査と血液検査をして異常の無いことがわかり、結局、疲労と軽い脱水症状でないかということで、ベッドで横になり1時間余り点滴を受けた。
病院を出て加納さん宅へ戻ると奥さんが帰っておられ、別室でゆっくりと休憩させていただいた結果、急速に元気を取り戻した。夕方、軽い散歩と夕食を兼ねて奥さんに「少し出てきます。ついでに夕食を済ませてきますから」と言うと「そんなこと言わないでお接待させて下さいよ」と返ってきた。「お接待しましょう」ではなく「させてください」だ。再び四国の人の熱い心に接することとなった。夕食は加納さんご夫妻と、もう一人の気功の先生、それに私達の合計5名で一緒に頂いたが、気功の先生は自転車で何回か遍路をしているそうで、歩き遍路の靴の選び方や、遍路の注意事項など、諸々のお話をうかがった。
食後、加納さんに「明日は何処まで行く予定ですか?」と聞かれたので「59番国分寺の少し先まで行きたいのですが、宿がありますか?」「あの付近は宿が全然無いですよ。良かったら明日は国分寺まで打って、バスで此処まで戻りもう一晩うちで泊り、明後日またバスで国分寺まで行って、其処から歩いたらいいですよ」と教えられた。歩き遍路は「歩き」にこだわっていることを良くご存知で、しかし一度歩いた道を再度通るのはバスでもよいだと云うことである。
(本日の参拝した札所と歩行距離)
民宿伊予路……32.5キロ……54番・延命寺……3.5キロ……55番・南光坊……0.7キロ……善根宿・加納サン宅
歩行距離合計36.7キロ(但し車のお接待を受け休養をとった為、歩行距離は約12キロ)

(30日目)二足目の靴
平成7年8月5日(土)晴れ
今日は1番霊場を出発してから30日目。毎日毎日晴天続きで34〜35度の連続である。5時50分、リュックを加納さん宅に預けて「そうっ」と玄関から出発。まだ寝ておられるからだ。
6時25分第56番泰山寺(タイザンジ)に着いた。この寺は田園地帯の中にあり、山門がなく白壁にかこまれ、境内は左右に細長く伸びていた。納経を済ませて待っていると、6時50分に住職が納経所に出てこられ朱印をいただいた。
次の57番栄福寺(エイフクジ)までは3キロの道のりである。田園の中を縫うようにして進むとやがて札所に着いた。この寺の住職は次の第58番仙遊寺(センユウジ)への道をメモに書いて丁寧に教えて下さった。畑や池のある緩い坂道を行くとやがて池の横に出た。書物によるとこの池は犬塚池と云い、名の由来は「昔、栄福寺と仙遊寺の住職を同じ人が兼ねていたとき、犬に二つの寺のお使いわさせていた。用事があれば寺の鐘を鳴らして犬を呼んでいたが、ある時、ある時、その合図の鐘の音が両方一緒に鳴ったので、犬はどちらに行くべきか困り進退極まって遂に狂って、この池に入水自殺したことから犬塚をつくり、犬塚池と名づけた」とある。
急勾配の旧へんろ道(自動車の場合は、これとは別に緩い参道がある)を進み石段を登って行くと、やがて仙遊寺の境内に出た。境内からの景色は素晴らしく、遥か下方に今治の街並が展望でき、大きく息を吸い込んだ。この寺の名にも由来があり「この寺に籠っていた阿坊仙人という僧が、ある日突然雲の如く消えたという伝説に因んで仙遊寺と号するようになった」とある。寺の名にふさわしく、作礼山の山頂約300メートルに建っている。
その境内で般若心経を流暢に、しかも熱心に唱えておられた40歳台かと思われる女性に「お遍路さん、歩いてお参りですか。私の家は次の59番の近くですがよかったら今夜うちへ泊りませんか」と声をかけられた。今夜は昨夜の加納さん宅にもう1泊する予定でリュツクを預けてきたので、「有難う御座います。実は今夜はすでに泊る予定がありますので」と言って一度は丁寧にお断りしたがよく考えてみると国分寺の近くで泊ることができれば、次へ進むのに極めて好都合である。妻も「お父さん泊めていただこうよ。荷物は今日中に加納さんまで取りに引き返したらよいから」と言う。事情を説明して今夜の宿をお願いすると、快くお引き受け下さって名刺をいただいた。お名前は村上紀和子さんとある。
そこで、加納さんにも電話により事情を伝えると「それはいいことです。お師さんのお引き合わせでしょう。どうぞ泊めて頂きなさい」と親切な返事をもらった。仙遊寺を打った後8.7キロ先の国分寺を続いて打ち、そこから今治駅行のバスで加納さん宅まで引き返し、お礼を述べてリュックを受け取った。
その後、国分寺までもどるには時間が早かったので今治駅に出て私の靴を買い換えた。遍路に出る前に私達夫婦は自宅近くで揃いの靴を買い、1週間ほど履いて足に馴らしてきた。私は小柄で足も極めて小さいので、女性の足と殆ど変わらない。妻の靴と私のは形も寸法まで全く同じである。30日間毎日30キロ前後歩いたためか、減り方が早かったようで穴があき掛けていた。妻は「この靴に履き慣れているので、お父さんの靴を私に頂戴。お父さんが新しいのを買ったら」なるほど、私の靴妻に払い下げ私の靴が新調されることになった。
バスで国分寺まで戻り近くの公衆電話から村上さんに電話を入れると、間もなくご主人が車で迎えに来て下さった。村上さんは女性ながら土建会社を経営していて、ご主人は船に乗っておられるとのこと。小学校1年生のモトフミ(字は不明)君と、そのお兄ちゃんとの4人家族だそうだ。家に着くと奥さんが「疲れたでしょう。さあ、冷たい素麺を召し上がれ」と桶に沢山入ったのを差し出された。夏の冷やし素麺は、又格別である。暫くしてお風呂と夕食を頂いて、くつろいでいると「まあ、この暑い夏に、ご夫婦で歩いて遍路とは。なんぞ子供さんにでも不都合なことがあったのですか。それとも誰かにご不幸が。よかったら聞かして下さい」と尋ねられた。
最近の四国遍路は観光バスやタクシー、自家用車で参る人が殆どで、歩き遍路は少ないが、昔の遍路は車も無く歩くのが当然だった筈である。その代りと云ってよいか、歩き遍路の中には肉親の悲しい出来事や、自己の病気や人生回顧等、何かいわく付の人が多いらしい。私達もそのような遍路と思われたのだろう。最初に書いたように、私は当初歩くことだけが目的で遍路を計画したが、妻の乳癌手術後2年を経ったお礼参りが出来るということで、妻を同行して大阪を出た。途中、沢山の四国の人々の暖かい心に触れ、更にお大師さんにまつわる逸話を見たり聞いたりする機会に接し多少ではあるが考えが変わってきた。
「実は、2年前に妻が乳癌の手術をして、その後の経過も良いのでお礼参りにきました」と答えた。すかさず「お父さん。辻本さんは奥さんの乳癌手術のお礼参りだと言っておられるよ。お加持してあげましょう」ご主人と二人で仏壇に向かって般若心経をあげて祈祷して下さった。村上さんは相当な信仰家らしく、お経の本は分厚く黒光りをしており、1日に何度もお祈りをされるようである。
(本日の参拝した札所と歩行距離)
善根宿:加納さん宅……3.0キロ……56番・泰山寺……3.0キロ……57番・栄福寺……2.5キロ……58番・仙遊寺……8.7キロ……59番・国分寺………バスで今治の加納さん宅まで引き返し戻る………59番・国分寺宿………村上さんの車に乗る………善根宿・村上さん宅
歩行距離合計17.2キロ

(31日目)車のお接待
平成7年8月6日(日)晴れ
今日は当初の予定では61番・香園寺(コウオンジ)わ先に打ち、明日60番・横峰寺(ヨコミネジ)と逆打ちする予定だった。ところが昨夜、村上さんとお話しているうち、妻が道中で車のお接待を受けた事を話した。すると村上さんは
「えっ、車でもいいんですか?それじゃ明日主人が休みですから、一緒に車で回ったら」と言う事になり、ご主人と小学校1年のモトフミ君と同行して、午前7時に車で村上さん宅を出て横峰寺に向かう。
この霊場はつい最近まで遍路泣かせの難所で四国の最高峰石鎚山の中腹の標高700メートルにあるが、十数年前に寺の1.5キロ前まで林道が出来て、大型バス以外は車で行けるようになっている。車を降りると村上さんは、履物を脱いで手に持ち素足になった足の裏が痛くないのだろうか。信仰からくる修行の方法だろう。
鬱蒼とした樹木に覆われた境内は、山中の霊場らしく厳粛な雰囲気につつまれ、こころの引き締まる思いがした。
参拝の後、もと来た道を車の所まで戻り、次は第64番前神寺(マエガミジ)に向かう。順打ちであれば次は61番香園寺の筈であるが、今日は64番.63番.62番と初めて逆打ちすることになった。
歩き遍路の場合は、通常順打ちよりも逆打ちの方が困難だと聞いている。はっきりとした理由はわからないが、逆打ちは山道の坂が急なところが多く、また、遍路のための道案内である標識が、順打ちのために設けられているところが大部分であるからではなかろうか?
しかし、霊場によっては逆打ちの方が便利なところもあるようだ。特にバスツアーの遍路は車道を走る為順打ちにこだわらないが、歩き遍路の中には順打ちにこだわる人もあるようだ。
しばらくして64番前神寺に着いた。本によると、役の行者小角が開創した寺で、大師も四国霊場開創の時に石鎚山に登り、この寺で護摩供の秘法を修め、64番札所としたとある。
境内には石鎚大権現を祀っている。
つづいて国道11号線を西に進み、63番吉祥寺(キチジョウジ).62番宝寿寺(ホウジュジ)と打ち、12時頃61番香園寺に到着して、長い参道の奥にある建物わ見てビックリした。すると妻が
「お父さん、この寺は前に家族で道後温泉に来た時に、寄ったことあるお寺ですよ」と言う。
そう云えば昭和63年の秋、私達夫婦と私の母、長男夫婦及び娘夫婦と孫二人の合計9人が車で道後温泉へ旅行した。
あれからこの時まで7年が経っているが、妻はよく覚えていたものだ。(現在私は孫7人)
「そうだ。そうだ。あの時朝早く今治の港に着き、7時頃に此処へ寄ったな。確かお遍路さんが沢山きていたな」
およそ寺とは思えないような鉄筋コンクリートのビルのような建物だから、特に印象に残った。この建物は地下一階地上二階建てで二階が本堂になっている。又この寺は「子安大師」と呼ばれ安産.子育てを祈願する寺として有名で、今日もお腹の大きい女性が数組、夫や親と一緒にお参りに来ていた。
午後2時頃、香園寺に戻り村上さんに別れを告げ、別棟になっている宿坊「子安会館」に宿をとる。ここは350人は宿泊できる立派な施設であるが、遍路の少ない真夏とはいえ、宿泊客は私達二人だけの貸切であった。
遍路が遍路にお接待
夕方になって妻と散歩にでかけたところ、大きなリュックを背負った20歳位の歩き遍路に出会った。聞くところによると、福井県より来た僧侶で名を河本といい、住職に四国遍路をして修行するよう言われて出てきて、野宿をしながら遍路をしている。昨夜は私達が前々日にお接待を受けた加納さん宅に泊めてもらい、私達の話を聞いてきたとのこと。
加納さんで貰ったおにぎりの残り二つを持っているので、今晩一つ食べ、もう一つは明朝食べるつもりであると言う。
これを聞いた妻は、直ぐに閉店前の近くのスーパーに走って行き弁当を買い与え、その上に現金二千円をお接待した。
徳島県の16番近くのウドン屋で私達は遍路より現金のお接待を受けたが、今日は、その反対に遍路にお接待をすることになった。これも何かの縁だろうか。
(本日の参拝した札所と歩行距離)
善根宿:村上さん宅……33.4キロ……60番・横峰寺……約25キロ……64番・前神寺……3.3キロ……63番・吉祥寺……1.5キロ……62番・宝寿寺………1.5キロ………61番・香園寺
歩行距離合計64.7キロ
(注)本日は車のお接待のため歩行は少ない。

(32日目)無題
平成7年8月7日(月)晴れ
午前4時、宿坊「子安会館」を出る。今日も星がきらきらと輝いている。どうやら今日も晴天で暑いようだ。うんざりする。せめて日中は風のあることを祈る。
順打ちならば62番だが、昨日のうちに62番から64番まで打ってあるので、それぞれの札所の前を通り65番三角寺に向かう。しかし、道のりは51キロ余りあるので、途中の新居浜市にある「ビジネスホテル美空」に昨夜のうちに宿泊の予約をしておいた。
国道11号に沿って車道を避け、旧道わ東へ東へと進む。宿を出て途中朝食と2〜3開休憩をとったが11時には 予約をしておいたホテルの近くまで来た。すでに朝から23キロ余り歩いているが、二人とも体調が良いので、泊るにはまだ時間が早い。妻に「もう予約した宿の近くに来たが、どうする?」と言うと
「まだ早いし、もったいないわ。もう少し先までいきましょう」
近くにあった公衆電話から、理由を伝えキャンセルしたが、快く了解して下さった。キャンセルするならなるべく早く、出来れば午前中と聞いていた。
新居浜市の商店街付近で、自転車に乗った70歳位の女性に呼び止められ、300円のお接待を受けた。現金によるお接待は、これで10回目である。有難いことだ。
それから暫く旧へんろ道と国道が合流したり、また離れたりしながら、やがて土居町に入り道路脇の郵便局に立ち寄り軍資金をおろした。その軍資金も次第に痩せ細り、残高は20万円余りになっている。しかし、考えてみれば贅沢な旅である。
通常、車で廻れば1週間か、せいぜい10日程で88ケ所を打てると聞いている。団体のバスツアーなれば13日〜14日らしい。費用も遍路用品を除けば25万円位らしい。
歩けば40〜50日を要し、費用は一人40万〜50万円、二人で100万円ほど要ることになる。日数といい費用といい、まことに贅沢な旅だ。恵まれた者でなければできないと思う。その上健康で健脚で我慢強くなければ駄目だ。私達は本当に幸せものだ。
2時過ぎ今夜の宿の蔦の家旅館に到着。例によって入浴、洗濯と夕食の後、夕方、妻と駅前を散歩し牛乳を求めた。遍路に出てからは生活や環境の変化、特に食事で野菜の採りかたが少ないためか、便秘気味になり、トイレで難儀することが多かった。そこで通じをよくするため、バナナや牛乳を買うようになった。
(本日の歩行距離)
61番香園寺宿坊「子安会館」……34.2キロ……蔦の家旅館

(33日目)トイレを借りたお大師さん
平成7年8月8日(火)晴れ
3時15分宿を出発。旧へんろ道を約1.5キロ進んだところで国道11号線に出る。地図によるとそれから先も、国道に沿うたへんろ道があるようだが、ペンライトを持っていても、暗くて標識を見落としてみちに迷う恐れがあるため、そのまま国道を進む。この国道は歩道がなく大型トラックが、すれすれのところをうなにをあげて通り過ぎて行くのには閉口した。
伊予三島市に入った頃、妻が尿意を訴えた。案内図を見ると少し先に大山積神社がある。神社まで行けばトイレがあるだろう。20分程で神社についたがトイレは見当たらない。時間は6時前である。丁度その時、老夫婦が日の出の太陽に向かってお祈りをしておられた。「おはようございます。すみませんがこの付近にトイレはありませんでしょうか?」
「まだ早いから、神社のトイレは鍵がかかってるでしょう。私の家が近いから、うちへ来んしゃい」
200メートルちかく歩いて、その民家に案内された。妻がトイレから出てくると「どうぞ、お茶をあがって下さい」と云われ、
ご主人が奥さんに 「おい、今日は、きっと良いことがあるぞ。お大師さんが家に来て下さった。有難いことだ」と言う。
有難いのはこちらの方なのに、このような考え方には全く恐縮してしまったが、それだけ信仰心が厚いのだろう。
間もなく第65番三角寺への山道の登りに入ったが、思ったほどきつくなく、だらだらとした急カーブの続く坂道を進むと、やがて札所に着いた。70数段の急な石段を息をはずませながら上がったところに立派な仁王門があり、奥の方に本堂が見えた。
標高330メートルの三角寺より、一旦、標高93メートルのバス停のある三角寺口まで下り、また、230メートル登って、今度は100メートルにある番外霊場の常福寺まで下った。この寺は案内書によると、ここを訪れた弘法大師が病封じの祈祷をされ、その時、地中に立てた杖から椿の芽が吹き大樹となったいわれから「椿堂」と呼ばれるようになったとある。
近くの店に入りパンと飲み物を買い休憩をとる。この店で2リットル入りのポトルのお茶のお接待を受けた。何回目のお接待だろうか?いや何十回かもしれない。
このあと、国道192号線の坂道を標高290メートルの境目トンネルまで上がる。トンネルを出ると其処は徳島県である。
順打ちの場合、愛媛県(伊予の国)の次は香川県(讃岐の国)の筈である。しかし次の第66番雲辺寺(ウンペンジ)は、徳島県と香川県の県境の山上にあり、歩き遍路の場合は一旦徳島県池田町に入り、雲辺寺口から登るのが通常のコースのようだ。車の場合は山の反対側に雲辺寺ロープウェイがあり、その登りの山麓駅は香川県側にある。
2時10分、予約しておいた民宿岡田に到着し、時間は早いがゆっくりと休息をとった。それでも朝の3時15分から11時間経っており、31.5キロ歩いていた。
ここは小さな一軒宿で、私達以外には道路工事の人達が2〜3人長期滞在しており満杯であった。
宿の夫婦は大層話し好きで、夕食のときはおくさんが傍から
「どうじゃ、美味しかろが。たくさんたべっしゃい」
と味自慢をされ、主人とも諸々の話をしたが、最後に
「辻本さん、大阪へ帰ったら、きっともう一度お四国参りをしたいとおもうよ。歩き遍路をした人は1回では済まないよ。必ず何回でも行きたいといいますよ」
と言われたが、その言葉は今でも耳に焼き付いている。
帰阪後に友人たちに体験談を話すうち、そのとおり、もう一度行きたいという思いが募り、2年後の平成9年からは「へんろみち保存協力会」の代表者である宮崎建樹先生が引率される「へんろみち一緒に歩こう会」に参加して、区切り打ちによって2回目を結願(ケチガン)した。
そして私は遂に「お四国病」にかかってしまった。
「エッ、それはどんな病気」と思うだろう。
ほかでもない。何回でも遍路したくなる病気である。恋の病と同じく、この病に効く特効薬は無いそうだ。
(本日の歩行距離)
蔦の家旅館……17.7キロ……65番・三角寺……14.4キロ……民宿岡田
歩行距離合計31.5キロ

(34日目)眼下に雲を見て
平成7年8月9日(水)晴れ
4時30分民宿を出る。
雲辺寺へり登山口は昨夜の夕食のあと散歩のついでに確認しておいた。
登り口を入った途端に、胸をつくような急坂道になった。真っ暗でペンライトの明りで前を照らしながら登るが、道が細くて草も茂っていて、時々進む方向がわからなくなる。
しかし、枝からぶら下がった道案内の「へんろみち」「大師の歩いた道」「南無大師遍照金剛」などと書かれた標識を頼りに進んでいくと少しづつ空が白み初め、約1時間登坂したら坂は緩やかになった。しばらく尾根道を進んだが、その頃から虻(アブ)に悩まされるようになった。タオルで払っても払ってもしつこくついてきてなかなか離れない。
しまいには「エーイ、ままよ。どうにでもなれ」と諦めてしまったが、刺されることは無かった。
6時50分雲辺寺に到着。案内地図によると登山口の雲辺寺口からは、登坂約3時間とあるが、2時間あまりで着いたことになる。
この札所は標高1000メートルにあり、八十八ケ所中で最高所にある。八十八ケ所には夫々ご詠歌があり、団体のお遍路さんは般若心経のほか、よくこのご詠歌を奉納していたがこの雲辺寺のご詠歌は
「はるばると雲のほとりの寺に来て、月日を今は麓にぞ見る」とある。そのとおり登坂中、明るくなった頃、下を見下ろすと雲が眼下に見え、人家は遥かかなたに、ぼんやりと霞んで見えた。
納経をして朝のおにぎりを頬張っていると外人がやって来た。日本語で話しかけてきたので応じると、ニュージランドの人で、日本の文化を肌で感じるために、歩き遍路をしているという。長身で上は白衣だが下は半ズボンで1メートル90以上あるだろう。この人は事前に八十八ケ所の勉強をしてきたようで、寺の横にもう少し高いところがあるからいきましょうと言う。外国人に日本を教えてもらうことになろうとは。
成る程、そこは見晴らしがよく県境の標識が立っていて左・・・・徳島県 右・・・・香川県(反対だったかな?)とある。外人のクレイズさんと云い、記念写真を撮った。
しばらくすると数名のお遍路さんがロープウェイで登ってきたようだ。案内書によるとロープウェイは7時からで所要時間は7分とある。私達が3時間ちかくかかったところをわずか7分で登れるのだ。
少し休憩した後、クレイズさんと別れて先に山を下り始めた。15分ほどすると後ろからクレイズさんの鈴の音が聞こえてきて、すぐに追いつかれた。長い足で短身の私達に追いつくのは簡単だ。しばらくは一緒に歩いたが、先に行ってくれるよう頼んで再び別れた。
標高200〜300メートルまで下がった頃から暑さが急に厳しくなってきた。案内図によると雲辺寺から次の第67番大興寺(ダイコウジ)までは9.8キロとあるが、この距離が長く感じられ腹の虫も鳴きだした。食料品店に入りパンを買って空腹をしのぐ。やっとのことで大興寺に着いた。
納経所を出て次の68番神恵院(ジンネイン)へ向かう。距離は8.6キロだ。朝からの距離は24.4キロだが、最高所の雲辺寺へ登った後でもあり相当疲れている。
神恵院に着いたが、ここには次の第69番観音寺(カンオンジ)と二つの札所が同一の境内にある。案内書によると、明治の神仏分離令により琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を観音寺の西金堂に移し、68番札所の本堂としたのが現在の神恵院となったと記されている。
先ず、49段の石段を上がったところにある神恵院を打ち、続いて石段下の観音寺と順打ちする。遍路の難所を「遍路ころがし」と言うならば、此処はまさに「遍路よろこばし」とでも云うべきか。
この後、境内の茶店で久し振りのかき氷を食べて喉を癒し、1.7キロ先にある予約しておいた「ビジネスホテル観音寺」に向かった。ホテルについたのは4時過ぎ。すぐに洗濯をして屋上の干場へ出たが、コンクリートからの反射熱と直射日光は焼け付くようにもの凄く恐らく今年最高で、37度位あったように思われた。
今日で34日目、雲辺寺からは涅槃の道場である。発心の道場、更に菩提の道場を経て最後の道場に入ったが、ここまで良くこれたものだ。体力もさることながら精神力、更には時間、特に仕事の都合での途中帰阪の必要も無かった。もう少しだ。
夕食は体力をつけるために奮発してビフテキを注文した。精進料理でなく肉食となったが仏様に許していただこう・・・・・南無大師遍照金剛
(本日の歩行距離)
民宿岡田……6キロ……66番・雲辺寺……9.8キロ……67番・大興寺……8.7キロ……68番・神恵寺.69番・観音寺……1.7キロ……ビジネスホテル観音寺
歩行距離合計26.2キロ

(35日目)蝮に用心、熊笹茂る遍路道
平成7年8月10日(木)曇り
5時30分ビジネスホテルを出る。昨日までの連続16日間の晴天から一転して、有難いことに?今日は曇り空だ。予想気温も昨日に比べて5度ほど低い。川べりに沿うて田園地帯を30分あまり行くと、高くそびえ立つ第70番本山寺(モトヤマジ)の五重塔の先が見えてきた。
間もなく財田川の辺りにある札所に着いた。仁王門を潜り本堂まで進むと、本堂の縁側で61番で一緒になった僧侶の河本さんが寝袋にくるまったて野宿していた。お参りして暫く待つと6時50分に納経所が開いた。
河本さんに先に行く旨を伝え、12キロ先の第71番弥谷寺(イヤダニジ)に向かう。予想どおり今日は昨日に比べると、気温が低いようで調子が良い。
3時間あまりで山の中腹にある札所が見えてきた。ここは海抜200メートルの高台にあり仁王門までは緩やかな石段が数十段つづき、更に仁王門から大師堂までの180段の急な石段を登り、またまた石段を上り詰めた所に本堂がある。この札所は岩山の上に建てられた寺で岸壁に阿弥陀さんが刻まれている。本堂でお参りした後、石段下の大師堂へ行ったが、ここの大師堂は靴を脱ぎ堂の中で納経をする。
納経所もこの大師堂の中にあった。時間はすでに12時近いが先程少し雨がパラついたせいもあり少し楽だ。
この寺で親子らしい女性の二人連れが真剣にお参りしていたが、ひょっとしたら姉妹だろうか?
案内地図を見て旧へんろみちに入り坂を下っていったが、人が殆ど通らないらしく、草や熊笹がぼうぼうと生い茂っている。先へ進むほどますます激しく道もわかりにくい。金剛杖で笹を払い払い進む。下は粘土のようなぬかるみで滑りそうにな。コンクリート道では太陽の熱で焼け死んで、パリパリに張り付いた蛇を何度も見てきた。しかし毒蛇らしいものには一度も会わなかった。
やがて広い車道に出た。
次は第73番出釈迦寺(シュッシャカジ)、つづいて400メートル先の第72番曼陀羅寺(マンダラジ)と逆打ちした。曼陀羅寺の境内には「不老松」と呼ばれる傘のような円形の大きな松の樹があり、その枝葉は200平方メートルの地上を覆っており真に見事であった。
その曼陀羅寺を出て5分ほど経った頃、又歩き遍路用の案内図を忘れたことに気付き、すぐに戻ったところ納経所の前で見つかった。この頃、とんと物忘れがひどくなったようだ。これでこの地図を忘れたのは2度目だ。
次の74番甲山寺(コウヤマジ)までは2.1キロと短い。この札所は讃岐平野を望む小山の麓にあり前は田園地帯である。更に次の75番善通寺(ゼンツウジ)も近くて1.6キロしかなく3時過ぎに札所に着いた。
ここは弘法大師ご誕生の地に建立された寺で、道路を挟んで本堂と大師堂があり、広大な境内に建つ五重塔と二層の屋根の金堂は壮大で且つ威厳があり、目を見張るばかりである。
今日は此処の宿坊に宿をとったが、250人も宿泊できるにもかかわらず、ここでも私達二人だけで他に客が無く、シーズンはずれとはいえ閑古鳥が鳴くばかりだった。
今日の歩行距離は24キロであるが、札所間の距離が短いため六ケ寺を打った。そのうち72番から75番までは善通寺市内にある。
(本日の歩行距離)
ビジネスホテル観音寺……3.3キロ……70番・本山寺……12.2キロ……71番・弥谷寺……4.3キロ……73番・出釈迦寺……0.4キロ……72番・曼陀羅寺……2.1キロ……74番・甲山寺……1.6キロ……75番・善通寺
歩行距離合計23.9キロ

(36日目)母娘連れの遍路
平成7年8月11日(金)晴れ時々曇り
5時10分宿坊を出る。
1時間ほどで第76番金倉寺(コンゾウジ)に着いた。この寺の境内に有名な「乃木将軍妻返し松」があった。単身赴任してここに下宿していた将軍を訪ねた妻に会わず、帰したという話にまつわる松である。乃木将軍の心意気がうかがわれる。はたしてげんだいの世に通ずるだろうか。
次の第77番道隆寺(ドウリュウジ)も1時間ほどで着いた。ここは湊町・多度津の田園の中の札所で、この土地の豪族であった和気道隆が建立したことから、この名がついている。
ここを出てから丸亀市を通り7.1キロ歩いて10時頃第78番郷照寺(ゴウショウジ)に着く。この寺は88ケ所の札所中ただ一つの時宗の寺である。ここで又71番で見かけた二人連れの女性に会った。話を聞くと仙台の人で、親子であることがわかった。母親が極めて若く見えたため、ひょっとしたら姉妹かと思ったが、娘さんは18歳位だろう。以前、母は車で主人と一緒に来たが、今回は区切打ちで出来るだけ歩きだが、時々、電車やバスにも乗ると言っておられた。真剣に長い長いお経をあげていた。
ここから坂出市にある次の第79番天皇寺高照院(テンノウジコウショウイン)まで、この親子連れと同行することになった。この寺は一つの敷地の中に神社と寺が同居していて、先ず神社の鳥居を潜り抜けると社殿があり、その左に本堂や大師堂があった。
ここから2.6キロ歩いて、今夜の泊りは城山(キヤマ)温泉という旅館にとった。ここは海抜462メートルの城山の中腹にあり見晴らしがよく、レジャー施設として演芸場があって、旅芸人が8月中の1ケ月間泊り込み興行をしていた。
ここは1泊2食8000円とこれまで泊った宿の中で最も高かったが、通常は最低が1万円でお遍路さんということでとくべつの扱いとのことだった。したがって料理も器も立派でへんろにはもったいいない位だった。
(本日の歩行距離)
75番・善通寺宿坊……3.9キロ……76番・金倉寺……3.9キロ……77番・道隆寺……7.1キロ……78番・郷照寺……6.3キロ……79番・高照寺……2.6キロ……城山温泉
歩行距離合計23.8キロ

(37日目)悩める女性
平成7年8月12日(土)晴れ
5時に宿を出る。坂を下り綾川橋を渡り1時間余り行くと、第80番国分寺に着いた。お参りしをして宿で作ってもらった朝のおにぎりを頬ばる。何度食べても歩いた後のおにぎりは最高だ。
丁度その時、住職の奥さんと長いこと話をしていた40歳位の女性が、私達に話しをしたのによると
「姑とうまくいかず、現在夫と離婚の話がでて、しばらくこの寺の近くの親元へ帰っていて悩んでいます。自分は別れたくないが、うまく元の鞘に納まるよう毎日1時間の道を歩いて国分寺にお参りしています。出来れば次の第81番白峰寺(シロミネジ)まで一緒に連れて行って欲しいのですが」と言う。
聞けば朝早く家を出て食事をとっていないらしいので、おにぎりを分け与ええ同行することになった。そのことを住職の奥さんに伝えると
「81番への道は険しいから、この杖を持って行きなさい」と言って金剛杖をお借りした。
寺のうしろの「へんろころがし」と云われる険しい道を登って行くと「まむしに注意」と書いた標識があった。蛇なら安心?(痩せ我慢か)だが、蝮だけはご勘弁をお願いしたい。
途中で小休止をとっていると、下の方から「チリンチリン」と鈴の音が聞こえてきた。見ると昨日78番で出会った母娘連れが登ってきた。一緒に歩くことになり全部で5人、いや「お大師さん」も一緒だから6人である。
白峰寺は五色台(白.黒.紅.青.黄の五つの峰)の一つである「白峰」を登ったところにあり、付近は深山の樹木に包まれ、石段を上がる途中に薬師堂があり、更に石段を上がると本堂、大師堂があった。
納経のあと、更に第82番根香寺(ネゴロジ)への山中の尾根道を進み、途中で国分寺より同行した女性と別れたが彼女の幸せを祈らずにはいられなかった。
アップダウンを繰り返しながらすすむと、やがて広い車道に出た。五色台スカイラインである。暫くしてまた土道に入ると根香寺の仁王門である。仁王門から本堂までは数百メートルあり、本堂はかなり急な石段の上にあった。
ここの大師堂の前にベンチがあったので母娘連れとともに昼食のおにぎりを食べたが、今日は日差しもさほどきつくなく、風もあって爽やかだった。
標高360メートルの根香寺を出てからは母娘連れと別れ、高松市鬼無に向かって急カーブの連続する車道をどんどん下っていく。通行する車も少なく快適な遍路行となった。やがて右下方に大きな池と学校(地図によると高松西高校とある)が見え、下りきると平地に出た。
間もなく宿泊予定の「民宿みゆき荘」に2時30分到着。今日の歩行距離は地図によると24キロメートルである。
私の遍路計画では当初45日前後かかるだろうと思って大阪を出発したが、今日で37日目で残りを推定すると少し早くなりそうだ。その原因は、これまで車のお接待を4回(距離にして120キロあまりと思われる)受けたためと、高知県の修行の道場では1日40キロ以上歩いた日もあったからだろう。
妻も相当疲れているようであり、これからは1日の歩行距離を少し短くしよう。
みゆき荘の奥さんは若くて愛想が良く、部屋へはいるなり
「お疲れでしょう。洗濯物を全部だして下さい。洗いますから」と言う。
昨日まで毎日妻が洗濯をしてくれたが、洗濯のサービスを言われたのは初めてである。歩き遍路にとってこれほど有難いことはない。夕食には牛肉のタタキと海老カツその他のご馳走が出た。高知県の宿では殆ど鰹のタタキがでて、私にとっては好物であったが、毎日毎日ではさすがにうんざりしたと言っては、お大師さんのお叱りを受けるのではなかろうか。明日の朝も暗いうちに出るので、夕食後、道の確認のため妻と散歩に出た。
(本日の歩行距離)
城山温泉……5.2キロ……80番・国分寺……6.7キロ……81番・白峯寺……4.6キロ……82番・根香寺……7.5キロ……民宿みゆき荘
歩行距離合計24.0キロ

(38日目)忘れた掛軸
平成7年8月13日(日)曇り時々雨後晴れ
4時30分、民宿みゆき荘を出発。地図によると結願の88番までの距離は約60キロである。83番一宮寺(イチノミヤジ)への道は昨夜宿のご主人に地図を書いてもらった。ところが宿を出て十数分で広い車道を横切ったところでわからなくなった。持参した磁石とにらめっこして適当に判断して進んだがまた広い十字路で迷う。時間はまだ5時30分で道を聞こうにも人通りが全く無い。
やっと、牛乳配達の車をつかまえて尋ねるが知らないようだ。お遍路に出て四国の人々の遍路に対する数々の人情に接し、また町中で道に迷ったとき
「○○寺へ行くにはどう行けばよいでしょうか」と尋ねれば、即座に
「ああ、○○番ですね。それはこの道を進んで・・・・・」と教えられることが多かった。従って四国の人は誰でも札所への道は知っているものだと思っていたが、間違いだったようである。
一宮寺に6時到着。早速、妻がトイレに入り用をたして出てくると「お父さん。トイレの中にこれを忘れてあったよ」
見ると霊場巡拝の掛軸だ。私達も55番へ向かう道で掛軸を落としたが、今度は忘れ物として拾う番になった。朝早いので恐らく昨日この札所を巡拝したひとが忘れたのであろう。四国遍路は最近は車による観光を兼ねたお遍路さんが大部分であるといわれているが、それでもご宝印をいただいた納経帖や掛軸は、命の次に、いや、人によれば命よりも大切な物である筈だ。昨夜は宿で眠れたであろうか。
7時に納経所が開いたので、その旨を伝え掛軸をお預けした。落とし主にとどけばよいが。
一宮寺わ打ち84番屋島寺に向かう途中で雨が降り出した。何日振りの雨だろう。日記を調べると7月24日以来、20日振りである。
近くの民家の軒を借りて雨具(合羽等)でリュックサック、ずた袋などを覆い、靴に防水スプレーを振り掛けた。久し振りの雨中遍路だ。雨脚のきついときは家の軒に雨宿りし、小雨になると前進するが、数日前までの厳しい暑さに比べれば、むしろ快適である。
やがて、有名な栗林公園にさしかかった。
「さあ、もうすぐ栗林公園だ。見物していこうか」というと
「時間が惜しいから前にすすみましょう」と云う。
私は過去に高松へ旅行に来て栗林公園は知っているが、妻は知らないと言う。それでは折角のチャンスだからと説得して見学することにした。
紫雲山を背景にした回遊式庭園は、折りしも雨に濡れた松の緑に映えて、まさに日本庭園の真髄をここにみることができた。
公園の中にある茶室掬月亭で抹茶をいただいていると、岐阜から観光に来たと言う夫婦と子供さんの3人連れに声をかけられた。私達の歩き遍路の話を聞かれ「それは素晴らしい。出来たら一緒に写真に入っていただけませんか」ということになった。公園を出て間もなく、どしゃ降りの雨になってきたので店先で15分ばかり雨宿りする。更に高松市の中心街を国道11号線に沿って東へ進み、新川をわたってから北進して屋島寺への急坂の「へんろみち」にさしかかると
「お四国さん、お接待しましょう」と50歳過ぎ位の女性から威勢のよい声をかけられ1000円のお接待を受け 納め札をお渡しして有難くいただいた。
先程までの雨が止んで厳しい夏の日差しが戻り、2キロばかりの短い距離だが、この坂道は見た目以上にこたえ、特につまにとっては厳しかったようだ。
屋島寺は標高284メートルの屋島の頂上にあり見事な眺望で、源平壇ノ浦古戦場や瀬戸の島々、四国の山々が見渡せた。境内は広々としており土産物店も多く、この日は日曜日のこととて自動車やケーブルで上がって来た多くの観光客で賑わいをみせており、私達以外にも車による数名のお遍路さんが参拝していた。
ご宝印をいただいて登ってきた石段まじりの急坂を下り、3時30分、屋島ケーブル登山口駅近くの「おうぎや旅館」に投宿した。
(本日の歩行距離)
民宿みゆき荘……7.4キロ……83番・一宮寺……13.7キロ……84番・屋島寺……2.2キロ……おうぎや旅館
歩行距離合計23.3キロ

(39日目)結願に向かって
平成7年8月14日(月)晴れ後曇り
5時40分起床。久し振りに宿で朝食をとってから6時30分出発する。
次の第85番八栗寺(ヤクリジ)は、昨年、私が趣味としている詩吟の会の人達と、バスによる親睦旅行でお参りした寺である。1時間程で寺へのケーブル乗車駅に着いた。乗車口でケーブルに乗るため待っている人達と話をかわす。小休止の後、ケーブルの横から急な登山道を登り約20分で寺に着くと先程ケーブル乗車口で言葉を交わした人たちと一緒になり
「えっ、もう登ってきたのですか。凄いとびっくりされた。ケーブルの待ち時間があったためだろう。
この寺は標高200メートルの位置にあり、台地上の屋島とは好対象で険しい峰が連なる五剣山の中腹にある。商売繁盛の神様とかで沢山の参拝客がお参りをしていた。
続いて第86番志度寺(シドジ)に向かう。残りは3ヶ寺と思うと心が弾む。妻は「お父さん、88番でお参りするときは、感極まって号泣するでしょうね」と言う。
志度寺は志度町の中心街にあり、仁王門をくぐると五重塔がそびえたっており、また此処には回遊式の庭園があって遍路の心を癒してくれた。
志度寺を打って第87番長尾寺の車道を南進していると、妻が
「ちょっと、お父さん。向こうからカメラを構えている人がいるよ」
なるほど、前方右側の小高い所からレンズがこちらをむいている。撮り終えると70歳前後の夫婦が近づいてきて
「お遍路さん、失礼かもしれませんが写真を撮らせてもらいました。出来たら送らせていただきますから、住所を教えて下さい」
やがて長尾寺に着いた。この札所は源義経の愛妾であった静御前が得度して尼となった寺とのことだ。打ち終えたのは12時過ぎだった。
きょうの予定はこの寺の前にある「やなぎや旅館」に投宿し、88番は明日打つつもりだったが時間は少し早すぎる。しかし、旅館は昨夜中に予約しておいたので、とりあえず宿を訪れると 「お客さん、時間がもったいないから、これから88番を打ったらどうですか」と云う。
しかし、88番の大窪寺(オオクボジ)までは地図では15.6キロあり、往復31キロは、この時間では無理だ。
歩き遍路であることを伝えると
「それじゃ途中までバスがありますから、それに乗り、帰りを全部歩いたら良いでしょう」なるほどそうすれば歩きの目的を達することになると思い、早速バスの時間を調べた。10キロばかりバスで行き多和学校前で下車し、札所に向かって5キロの坂道を進むうち、うしろの空が曇ってきて雷鳴が聞こえてきた。
「雨が降るかもしれない。急ごう」急ぎ足で進み、やっと大窪寺に着いた。
幸い雨にはあわずに済んだ。「四国霊場結願所」と書かれた石柱が立っている。
ああ、いよいよ結願かと思うと感無量だ。本堂と大師堂に納経し、ふと見ると金剛杖や菅笠が沢山置いてあるのが見えた。結願したお遍路さんは、金剛杖や菅笠を寺に奉納して帰るのだと聞いていた。しかし、私達は結願したあとも、もと来た道を宿まで歩いて引き返すつもりである。遍路用品は家に持って帰るつもりである。宿への帰り道で妻が
「お父さん、大窪寺では号泣しなかったねえ。きっと、この長い帰りを歩かねばと思ったからだわ」
1時間あまりで多和学校前のバス停まで戻ってきた。地図を見ると、此処からまだ11キロ程ある。「急ごう陽が暮れる」
打ち終えた喜びと感激で気分が高調して、快適に足が進む。
6時40分、やっと宿にたどり着いた。あたりはもう殆ど暗くなっていた。
(本日の歩行距離)
おえぎや旅館……5.0キロ……85番・八栗寺……7.6キロ……86番・志度寺……7.0キロ……87番・長尾寺 (バス乗車10.8キロ)多和学校前……4.8キロ……88番・大窪寺……15.5キロ……やなぎや旅館
歩行距離合計39.9キロ

あとがき

40日間、約1300キロの私達夫婦の遍路行は終わった。
1番札所わ出てから途中いろいろな体験をしてきた。12番焼山寺への「へんろみち」では無理がたたり疲労困憊に達し、全く食欲をなくした。8月3日には今治市で暑さによる脱水症状に近い状態になり、病院で点滴を受けた。大事な掛軸を落としたたが幸いにもみつかり冷や汗をかいたこともあった。遍路姿で歩いていると、お年寄りが近づいてきて私達にてを合わせ「南無大師遍照金剛」と拝まれたことが何回かあった。
私は当初、ただあるきたいだけで遍路に出た。信仰心も殆ど無かった。しかし、四国の人々の大師信仰の熱い心に接し考えが変わってきた。大阪へ帰って人に接すると
「辻本さん、遍路に行って人間が円くなった」といわれた。しかし、自分では何ら変わったとは思わない。
1番を出たときに全行程を全部歩き通すつもりで大阪を出た。そして自動車によるお接待の誘いは、初めの頃は謝辞を云って断り歩きにこだわった。しかし善根宿の都築さん宅で
「車のお接待は快く受けてください」と教えられてから、都合5回のお接待を受け、距離にして100キロあまり車に乗った。そのため初めの予定では最低でも45日は要すると思われた道のりを40日で結願することとなった。
結願した翌朝は丁度、徳島の阿波踊りの最終日に当たったので、見物してから大阪へ帰った。
私はこの歩き遍路で四国の人々の暖かい心に接した。受けたお接待を数えると、善根宿が3回、頂いた金銭が12回の7930円、梅干、西瓜、トマト、バナナ、饅頭、コシヒカリ弁当、ジュース、スモモ、びわ、ヨーグルト、アイスクリーム、蜜柑、お茶、・・・・・などの飲食物は数知れず、何れも大師信仰の熱い心に感激し「南無大師遍照金剛」と思わず手を合わさずにはいられなかった。
弘法大師の化身ともいわれる金剛杖は磨り減って十センチ短くなっており、体重は約7キロ減っていた。妻は靴を履き破り、私の靴を新調した。
顔は真っ黒に日焼けし、人相が変わったようである。
妻も遍路中は手甲をして顔はタオルで覆い、目玉だけを「ギョロッ」と出していたが、夏の日光はきつく紫外線がタオルを通していたのか、かなり日焼けしていた。
今でも妻と歩いたあの札所から札所への険しい「へんろみち」や、炎天下の国道がまぶたに映り懐かしい。
しかし、菅笠に書かれている
「迷うが故に三界は城にして、悟るが故に十方空なり、本来東西無く何くんぞ南北あらん」の教えや 「色即是空」の境地にはほど遠い。俗人の域から抜け出すことは、とても出来ないようだ。
私はもう一度あの「へんろみち」を歩いて修行の一端でも経験してみたいと思って、松山市の「へんろみち保存協力会」の代表である宮崎建樹さんが先達になって歩く「へんろ道一緒に歩こう会」に平成9年から10年にかけて参加し、2回目の結願をした。
更には、宮崎先生の引率する「へんろみち」の草刈奉仕団にも9日間参加して、草刈に汗を流した。
夢は77歳の喜寿の年に妻と一緒にもう一度、歩いて通し打ちをしようと思っている。
その時は最少でも50日以上かけてゆっくりと回るつもりだ。その時妻は古稀を向かえている筈である。   合掌
【注】

辻本ご夫妻は平成17年に喜寿と古稀を向かえます。
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